→表紙 →目次 | 「我的漢語」東アジア文化圏の分類 2013年11月11日 |
| 水は低い所から高いところには流れない。 文化の広がりも、覇権国から流れるもので逆は甚だ難しいもの。征服された側の文化が、一世風靡することはあるが、それはあくまでも覇権者達にとって魅力的に映ったからピックアップされたに過ぎまい。 従って、文化を考える時は覇権の系譜を参考にする必要があろう。見かけの生活文化上の類似性をいくらあげつらっても、それが「伝播」によるものとは限らないということ。 これは、動物の分類と同じ。見かけはそっくりでも、有袋類と有胎盤類は全く違う種である。ご存知のように、たまたま環境への適応の方向性が一致したため、なんの紐帯がないにもかかわらず、外見ソックリになったと解釈する訳である。哺乳類である限り、進化パターンの制限枠を越えられないため、どうしてもこうなる。人類の文化的類似もこれと似たところがあろう。 この考え方で東アジア文化圏を考えるなら、中華思想的に「四夷」で眺めると全体像が入りやすい。と言うか、それが覇権者の意識そのものだったから。「四夷」とは、直に文化圏の分類にもなっているのである。 → 「四夷」 [2010.11.25] この思想の中核は「中華」発想。覇権者は漢民族でなくても構わないが、あくまでも文化の中心は「漢語」圏ということ。その外は文化的に劣位であり、中華文化を取り入れて開明すべしというもの。当然ながら、異民族文化の魅力的なところだけを「中華」に取り込んで覇権が及ぶ範囲を拡大する点に大きな意味がある。当然ながら、矛盾が拡大することは避けられず、そうなると帝王交代。言うまでもないが、「中華」思想である限りは、帝王は漢民族である必要もない。(現代の中国人は歴史上初めて文化的劣位に陥ってしまったと認識しているに違いなく、このアイデンティティの根拠を失ってしまった。毛沢東型暴走路線とは、「中華」思想の復活でもあるということ。この手の動きは、繰り返されること必定。) と言うことで、小生が見る「四夷」的な文化圏を描いてみることにした。先ずは、現代の近隣諸国を眺めるとよい。その上で、少数民族と国々の民族的出自を想うと、この地域をどう分類すべきか自然と見えてくる。 現代の国家群を、なにも「四夷」として分類する必要もないし、馬鹿馬鹿しく思えようが、古代からの系譜を考えるための準備運動と考えて欲しい。考えてみれば文化的に似たところがある一群と言えるかも知れぬ程度のいい加減なもので十分である。一種の頭慣らしにすぎない。(これに限らず、以下、勝手に解釈し、恣意的に並べたものとしてご覧頂きたく。)・・・ 【西戎】 哈萨克斯坦[カザフスタン] 吉尔吉斯斯坦[キルギスタン] 乌孜别克斯坦[ウズベキスタン] 塔吉克斯坦[タジキスタン] 巴基斯坦[パキスタン] 阿富汗斯坦[アフガニスタン] 土库曼苏维埃[トルクメン]─土耳其[トルコ] 伊朗/波斯[イラン/ペルシア] 【北狄】 蒙古[モンゴル] 俄国(俄罗斯)[ロシア] 朝鲜民主主义人民共和国 大韩民国 【东夷】 日本 台湾 菲律宾[フィリピン] 【南蛮】 尼泊尔[ネパール] 不丹[ブータン] 缅甸[シッタン] 印度[インド] 克什米尔[カシミール] 锡金邦[シッキム] 缅甸[ビルマ/ミャンマー] 越南[ベトナム] 柬埔寨[カンボジア] 老挝[ラオス] 泰国[タイ] 马来西亚[マレーシア] 新加坡[シンガポール] 印度尼西亚[インドネシア] 文莱[ブルネイ] 东帝汶 巴布亚新几内亚[チモール パプアニューギニア] さて、ここからが本番である。民族的出自を考えながら、文化圏に分ける訳だ。中国の少数民族を眺めているとなんとなくわかってくるもの。但し、これはあくまでも中国共産党に認定された民族でしかなく、実態としてはもっと沢山の少数民族が存在していそうだし、分類の仕方も違っている可能性もありそう。 ともあれ、とっかかりは、中華の本丸。 漢民族といっても、様々だが、非漢語民族に比べれば文化的に一様感はあろう。古いイスラム集団だけが、宗教的な違いから包摂されないだけで、実は雑多な文化なのだと思われる。 ○漢語系民族 【支配的中華層】 汉[漢] 【原初雑多】 回[ホイ、フイ](イスラム教徒) ・・・河西走廊 (→ 2010.11.18) (→ 2010.11.20) に留まっただけ。それが、漢族が広がっている地域に入り込んだということ。西域文化の体現者ではなく、仲介役という功利的な関係での交流ということか。 その次が【西戎】。 新疆维吾尔自治区には、ロシア人が存在しているようだ。もちろん相当古い時代に住み着いたということだろう。これはペルシアにも当てはまる。両者とも印欧語族であり、例外的な存在と言えよう。 ○中国のスラブ系民族 俄罗斯[オロス/ロシア]・・・ギリシア正教 ○中国のペルシャ系民族 塔吉克[タジク]・・・イスラム教シーア派 普通に考えれば、この地域はさらに西まで眺めればトルコまで繋がる遊牧文化圏と考えて間違いなかろう。基層文化は似ているから、政教一致の歯車が上手く絡み合うと、一大国家が生まれることになる訳だ。一方、セクト抗争や政教分離に進めば部族連合以上には発展しにくかろう。 ○中国のチュルク[突厥]系民族 维吾尔[ウイグル] 哈萨克[カザフ/ハザク] 乌孜别克[ウズベク] 柯尔克孜[キルギス/クルグズ] 塔塔尔[タタール] 撒拉[サラ] 一方、ここから東へ進むと本来は【北狄】領域になるが、現実には遊牧民族の流れがそのまま続いている。ただ、こちらの場合は、もともとは林も少なくなかった地域だろうから、アニミズム的信仰の狩猟民も少なくなかった筈。【北狄】には、その文化が残っていると言えよう。実際、一神教的な宗教はなかなか受け入れがたいものがありそう。 ツングースになると、どう見ても、北の寒冷地での森林生活文化だが、西から伝播した文化に染まって、家畜で生活するようになった見ることもできよう。この文化的紐帯は朝鮮半島まで続いている「アルタイ圏」と考えることもできそう。陸続きで、ツングースや満州系と入り乱れている朝鮮系の民族だけが無縁などと考えることができる訳もない。結局のところ、イスタンブールからプサンまで繋がる文化の道が存在していたことになる。これは、河西走廊から黄河の漢族中心世界を通るシルクロードではなく、イスタンブールからプサンまで繋がる遊牧者の交流ルートということになろう。現代で言えば、ロシアの大陸鉄道的なものにあたろう。 この帯状の地域文化こそが、アルタイ語族が形成されてきた所以だと思われる。 ・・・尚、「騎馬民族説」だが、これは、実に巧妙な仮説である。概念が馬の利用文化であり、家畜産業ではないからだ。それは当然であり、古墳出土品が南海の貝関連だらけだったのが、短期間で消え去り、華美な馬具になっているからだ。どうにも説明しがたいから、曖昧な概念を持ち出したということだと見て間違いあるまい。小生は、半島への傭兵サービス輸出で大いに潤っただけのことで、日本列島はこの遊牧文化の「アルタイ圏」には属していないと見る。当然ながら、日本語がアルタイ語族の筈もない。しかし、韓国語はアルタイ語族と見てもよかろう。両者は外見が似ていても出自が異なるというだけのこと。 ○中国の蒙古(モンゴル)系民族 蒙古[モンゴル] 达斡尔[ダフール] 东乡[トンシャン] 保安[バオアン] 裕固[ユグル] 土[トゥー] ○中国の通古斯(ツングース)系民族 鄂伦春[オロチョン] 鄂温克[エヴェンキ/オウンク] 赫哲[ホジェン/ホーチォ] 满・・・満州 锡伯[シボ/シベ] ○中国の朝鮮系民族 朝鲜・・・東北3省 もともと、現在の朝鮮族は、南部の韓と、濊[ワイ]、貊[ハク](例えば、高句麗)との部族集合体であるのは間違いなく、基層において文化的に内部対立を抱えていると思われる。古代はそれが表面化していた訳で、一番弱体だった韓族も他の部族との繋がり上、地域利害が相反するので常に分裂状態だった。そんな状況だったからこそ、倭国が半島に拠点を構え、傭兵事業に成功できたということ。尚、済州島(州胡)はどう見ても、南島文化で、文化的には半島とは関係が薄い。 ここで、【南蛮】に入る。【东夷】を先にご説明したいところだが、そうすると古代と現代のギャプがありすぎて、系譜が全くわからなくなるからだ。と言うのは、現在の「南」側には、2つの全く異なる流れが混然一体化しているから。と言うのは、旧【东夷】が漢族の「中華」攻勢に堪えかねたのか、敗北して逃亡せざるを得なかったのか、理由はよくわからないが、ともかくよく言われる「照葉樹林帯」に移動してきたからだ。その一方で、インド発祥のヒンズー教や仏教勢力も流れてきている。こちらは、インドからチベットに文化が伝播し、それが中華の本丸とインドシナ半島へとつながっていった訳である。 つまり、現代の【南蛮】は、押し出されて入ってきた勢力と、進出してきた勢力の均衡状態といったところ。 そのうちの進出勢力の方から見ておこう。チベットとそれに繋がる中国の照葉樹林帯辺りと、チベット大乗仏教の影響が明らかなインドシナ半島の勢力が一大文化圏を作りあげている。ビルマとタイ間の溝が深いのは、ビルマは大乗仏教でこの圏内に属すが、タイの仏教は非大衆的な出家型上座部仏教である点。それだけではない。タイ民族の発祥は【东夷】と考えられ、揚子江下流域から民族大移動してきた可能性が高く、文化的に両者はなんの関係もないからである。ここら辺りを理解した上で、照葉樹林帯の文化を眺める必要があろう。 ついでだから、ミャンマー(ビルマ)の少数民族について触れておこう。多数派はビルマ人だが、これだけの分裂状況ということ。もちろん、中国内の少数民族[漢字表記]や、その支流らしき民族が存在している訳だ。と書くより、国境など後から勝手につくられたものだから、支配されたくない民族は散り散りバラバラになって、ミャンマー、タイ、中国に存在していることになる。そんな場所で、西欧的民主主義がどうのこうの議論して果たして意味があるか考えた方がよかろう。以下をご覧になれば、その多さに圧倒されるだろう。 ○在ミャンマーの民族 【Kachin系】Kachin=景颇[チンポー]系, Tarone, Dalaung, Jinghpa, Guari, Hkahku, Duleng, Maru, Rawang, Lashi, Atsi, Lisu=傈僳 【Kayah系】Kayah, Zayein, Ka-Yun, Ghek, Kebar, Bre, Manu Manaw, Yin Talai, Yin Baw 【Kayin系】Kayin, Kayinpyu, Pa-Le-Chi, Mon Kayin, Sga, Ta-Lay-Pwa, Pak, Bwe, Monnepwa, Monpwa, Shu 【Chin系】Chin, Meithei, Saline, Ka-Lin-Kaw, Kham, Awa Kham, Khawno, Kaungso, Kaung Saing Chin, Kwelshin, Kwangli, Gunte, Gwete, Ngorn, Zizan, Sentang, Saing Zan, Za-How, Zotung, Zo-P, Zo, Zahnyet, Tapong, Tiddi, Tay-Zan, Taishon, Thado, Torr, Dim, Da, Naga64. Tanghkul, Malin, Panun, Magun, Mat, Miram, Mi-er, Mgan, Lushei, Laymyo, Lyente, Lawhtu, Lai, Laizao, Mro, Haulngo, Anu, Anun, Oo-Pu, Lhinbu, Asho, Rongtu 【Bamar系】Bama, Dawei of Dawei city, Beik, Yaw, Yabein, Kadu, Ganan, Salon, Hpon 【Mon系】Mon 【Rakhine系】Rakhine, Kamein, Kwe My, Daingnet, Maramagyi, Mro, Thet 【Shan系】Shan, Yun=(Lao), Kwi, Pyin, Yao=瑶, Danaw, Pale, Eng, Son, Khamu, Kaw=哈尼[ハニ], Kokan=[漢系"果敢"], Khamti Shan, Hkun, Taungyo, Danu, Palaung=コ昂[ドゥアン], Man Zi, Yin Kya, Yin Net, Shan Gale, Shan Gyi, Lahu, Intha, Eik-swair, Pa-O, Tai-Loi130. Tai-Lem, Tai-Lon, Tai-Lay, Maingtha, Maw Shan, Wa=佤 ちなみにここらでニュースに登場するのはミャンマー-タイ国境を無視したり、難民化している民族のようだ。 ○在タイ主流だがミャンマーにも存在する民族 Karen/克倫[カレン] Moken[モーケン]・・・アンダマン海辺りが本拠地の家船生活者 と言うことで中国の少数民族の話に戻るが、なんといっても存在感があるのがチベットである。巨大国家を作っていた訳だが、どうも青蔵高原に進出してきた民族らしき風合いがある。オアシス型の牧畜民と似た経済運営のようだし。それが一つにまとまったのは、農奴制と大乗仏教がその仕組みに上手く嵌ったことが大きそう。それに合わない民族は独立独歩ということで照葉樹林のなかで、孤立的に生きてきたという風にも読める。 それでも、明らかに、チベットあるいはビルマの文化が浸透しているのは間違いない。 ○中国のチベット・ビルマ系民族 藏[チベット] 门巴[メンパ] 珞巴[ロッパ] 羌[チャン] 普米[プミ] 独龙[トゥルン] 怒[ヌー] 彝[イ] 傈僳[リス]・・・タイ、ミャンマー、インド東部にも存在 僳[ナシ] 哈尼[ハニ]・・・ラオス、ミャンマーにも存在 拉祜[ラフ]・・・ミャンマー、タイ、ベトナム、ラオスにも存在 阿昌[アチャン] 白[ペー] 基诺[チノー] 土家[トゥチャ] 景颇[チンポー] 長くなったが、中国の照葉樹林地帯の民族の話にようやく入る。入植漢民族以外の目立つ民族と言えば上記のチベット・ミャンマー系ではなく、タイ系と言ってよかろう。繰り返すが、タイ側か中国側にさかのぼったのではなく、揚子江下流から西江高地を経て山を越えてチョオプラヤ川にまで到達したということ。本来なら、タイ王国という小さな国ではなく、散らばる同系列の少数民族を習合して大きな国家を作ってもよさそうに思うが、そのような方向には進まなかった。 ○中国のタイ系民族 壮[チワン] 布依[プイ] 傣[タイ] 侗[トン] 水[スイ] 毛南[マオナン] 仫佬[ムーラオ] インドシナ半島の縁戚としては、シャムの正統民族以外では以下のようなところ。 ○在ラオス主流民族 Lao[ラーオ](ラオス人)・・・もちろんタイにも存在 良く知られているように、越南[ベトナム]は「越」が沿岸地帯を南下した民族とされる。日本の「越」地方も関係がありそうと見る人もいる位で、大河や沿海の近距離移動だけでなく、遠距離移動にも長けていたとみなされていそう。 こんなことを書いていると、もともとの原住民族はどうなったのか気になる。絶滅させられた訳ではなさそうである。いかにも土着といった少数民族が存在するからだ。 ○土着源流的ベトナム民族 京[キン] ○土着源流的カンボジア系民族 佤[ワ] 布朗[プラン] コ昂[ドゥアン] ○半島分散民族[ミャンマー、タイ、ラオス] Mon[モン]・・・中国の苗/ミャオ系のモン/蒙とは別 そして、日本で度々紹介される苗族も洞庭湖辺りから雲南にやってきたという。漢族に押されて彷徨の図も想定される。対抗するとか、その文化を受け入れる余地はなかったのだろう。 ○広西雲南貴州周辺到達民族 苗[ミャオ]・・・ラオスにも存在 Hmong[モン/蒙]:ミャオの支系 仡佬[コーラオ] 瑶[ヤオ]・・・タイにも存在 畲[ショオ] こうやって眺めていれば、とうてい照葉樹林文化が雲南をセンターとして、日本、チベット、ジャワ方向に文化が伝播していったというお話に違和感を抱かざるを得まい。 珠江[チュー]/Pearl や揚子江/Yangtze River下流域から、押し出され、陸を沿岸伝いに南下したのがベトナム系で、紅河[ホン](ソンコイ川)/Red Riverやメコン川/Mekong Riverデルタで生活基盤を作り上げた訳である。一方、マラリアを初めとする恐ろしい照葉樹林域へと高地を進んだのがタイ系。糯米好きな方々である。(その後、タイ王国域では、は粳米好きに大変貌したと言われている。覇権国家ができれば、ありそうなことである。)そのまま高地の盆地にとどまり狭い地域で生きていくことにした人々もいたが、結局は山を越え、メコン川のラオスへと進み、チャオプラヤ川/Chao Phraya Riverに至って王国を作り上げることになる。 湿地に生きる文化の人達という感じがしないでもない。そのため、米作以前はタロ芋作に力を入れていた可能性を感じてしまう。 それを考えると、彼らの行く先はもう一つあったと想像してしまう訳である。それは海の方角。それこそが正真正銘の【东夷】とは言えまいか。「越」の支流ということになろう。 西はマダガスカル、東はイースター、北はハワイ、南はニュージーランドという広大な地域を移動した海人達と繋がるのではないかと。なにせ、蒙古斑が出る人達なのだから。 ただ、大陸やインドシナ半島の民族とは相当な隔たりがある言葉だらけだから、「越」のなかに、大海原に進出した人達がいたとの主張は根拠薄弱であるのが難点。 と言っても、中国で南島言語との共有性が認められる少数民族がゼロということでもない。以下の島嶼には、そんな言葉を話す民族が存在するのである。南から流されて漂着の可能性がありそうな場所だが。 ○台湾先住民族 高山○海南島先住民族 黎[リー] こんなことが大いに気になるのは、古事記によれば、豊玉毘売命は火遠理命[山幸彦]に和邇[鰐]となった姿を見られ出自の海の国に戻ったと記載されており、揚子江下流出身ではないかと考えさせられるから。その後、妹の玉依毘売命神が子供養育のために渡来し、自らも出産。これが倭伊波礼琵古命[神武天皇]の誕生話である。 それに、中華視点で記される史書で、倭は東夷の海人の国と見なされていたことも忘れるべきでなかろう。 しかも、倭からさらに先の国々の存在も記載されている。驚くことに、年の単位での航海で辿り着く先の国があるというのである。日本はそれらの国々の門戸役ということ。日本と南島の交流があったことは間違いなかろう。なにせ、三宅島の黒曜石が本州に分布する訳だし、八丈島にもヒトが到達していたのだから。これこそ南島文化そっくりと言わざるを得まい。 (公的民族情報) http://www.gov.cn/test/2006-04/17/content_255861.htm |
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