![]() ![]() ■■■ 「說文解字」「爾雅」検討[9aaaxxx釋地]■■■ 博物学Natural historyは自然物を分類(&命名)して構造化整理した上で、個々に記録する西欧発祥の学問。現役であって、死語化してはいないものの、博物学 v.s. 現代科学という見方が出来上がっている以上、そう考えても間違いとも言えないかも。(まともに考えれば、現代科学が包含していると見なすしかないが、対立的見方をしてしまえば、ノスタルジー学問と規定するしか手があるまい。…博物学は個別記述を優先している訳では無く、偏見無しに対象を網羅的に眺めることで、高位階層の"原理"が見えてくると考える、理念の学問であるのは自明であるにもかかわらず。) と言うことで、「爾雅」は、博物学とは似て非なる構成である点を繰り返し述べておきたい。・・・論理的整理分類を徹頭徹尾避けているのは明らかだからだから。 ここらは、東アジアの特徴がママ現れたとも言えそう。 秩序だった宇宙を創造した造物主ありきの宗教とは違っているということ。混沌から出発し、時は流れて行くという世界観なので、混沌的分類が愛されて当然。 公的に規定されていて、それで簡単に説明できるなら、十分というだけの分類観と言うこともできる。論理性皆無でも、情緒的納得感が得られるのなら、その方が優れているとの考え方。 これは、一理ある。 分類の出発点は、一種の娯楽的なClass観だった可能性が高いからだ。社会的実用性として説明できないこともないが、そこから生まれたとは考えにくいということ。 従って、尚古主義的な社会であれば、論理性を避け、情緒的分類を優先しがちになろう。 だからこその五行(火水木金土)。 これほどレベルがバラバラな分類観も珍しいが、論理性が無いにもかかわらず、普通は逆に受け取られているから、お見事の一言に尽きる。(「爾雅」は、こうした思考パターン醸成の重要なテキストでもある。篇建ては、一見、博物学的構成ではあるものの、そこから体系を考えるとか、秩序性議論に結び付くことはほぼないからだ。) ・・・当然ながら、五行的見方は、大衆への納得力は極めて高いし、用語的にも馴染みやすいから心地よく響いている筈。(頭を使わなくとも、使った感がそれなりに生まれ、確からしい気分に浸れる説への絶対的帰依が好まれる社会ということ。天子独裁-官僚統治の絶対性を確信している人々の社会とはそういうもの。) ・・・ここらは儒教に染まっていると、全く理解できないだろう。 宇宙創造~の秩序を前提とした宇宙観があるなら、何が始原かという問いは極く自然に発生する。世界には、神が定めた秩序=原理が存在することになるから、奴隷でないなら、それを探求し、自分が造られた意味を探りたくなるのは当たり前。しかし、儒教社会では、「始原は何か?」という疑問が生まれることなどあり得まい。他者から追求されたり、社会安定上必要性があると判断された場合に、対処の要ありとなることはあるだろうが。当然ながら、その場合の問いかけとは、「始原を何にするとよいか?」である。 ちなみに、「古事記」からすると、倭には哲学的始原論が存在していたように見える。元始の海的"わた"から、生命体元祖の神々が出現したとのストーリーだが、人格~が登場して活躍する手の内容とは程遠い。 戻⏪ ⏩続 ![]() (C) 2025 RandDManagement.com →HOME |