↑ トップ頁へ

2006.9.7
 
 


格差のプラス面…

 所得格差是正キャンペーンには注意を払う必要があると述べた。
   → 「格差是正論の胡散臭さ」(2006年9月6日)

 但し、これはマクロから見た、原則論。
 一旦、経済低迷に向かう流れをつくってしまえば、手の打ちようがなくなるから注意した方がよい、というだけのこと。

 言うまでもないが、こんな原則論で片付くほど簡単な問題ではない。格差是正要求の圧力は極めて高いから、政治家はそれに応えるしかないからだ。
 問題は、その応え方である。

 それを考えるには、現実に、どのような問題が発生しているのか見ておく必要があろう。

 例えば、以下に並べる問題も、統計上で格差の数字に相当寄与している筈である。
  ・老齢化(年金世代の急増): 所得ゼロもあり、凄まじい内部格差。
  ・働く気がない人々の急増: 働かないから所得は極小化。
     - 親の所得と資産に依存するだけの、働かない“子供”
     - ぎりぎり食べていける分しか稼がない、目的意識や勤労意欲を失った若者
     - 社会から脱落して、戻る気を喪失している、青テント村に住んでいる気分の人々
  ・子持ち離婚の一般化: 育児を優先すれば、労働時間は減少。
  ・低収入農林水産業への固執: 家計を支えられない家業の続行。

 この問題で、所得格差是正と言ったら、ほとんどの人にとってはピンとこないのではなかろうか。
 だが、これらが、格差の数字に効いているのは間違いあるまい。

 特に影響が大きいのは老齢化だが、これは所得格差というより、労働人口減少問題として取り組むべき話だと思う。(高齢者に仕事を斡旋する仕組みの導入に大きな意味があるとも思えない。マクロで見るなら、高齢層の持てる資産を事業投資に回してもらうとか、文化活動等で魅力あるコミュニティ作りに没頭してもらった方が全体としてプラスに働くのではなかろうか。)
 話を格差是正に戻すが、高齢者内では、この問題は深刻だろう。だが、これは福祉の課題と見るべきである。互助の精神で、余裕がある人達に再配分をお願いするしかあるまい。

 続いて厄介なのが、勤労意欲が無い層の存在。自ら、格差拡大を図っている訳である。社会が病んでくると、こんな人達が増える。
 なかには、こんな生活をしているのは格差社会だからという理屈をこねる人もいる。そして、自分の力で、自由な生活を送っているのは勝手だという。
 思いあがりも甚だしい。社会へ貢献する気はないが、勤労者が汗して作り上げた仕組みは勝手に利用して当然という傲慢な態度を隠そうともしない。倫理感が欠如しているとしか思えない。
 ところが、この風潮を煽る人が多い。さらなる厚遇策を導入したい人さえいる。どうかしているのではないか。

 育児問題や一次産業問題と続けたいところだが、この辺で、話を止めよう。
 一寸見ただけでわかると思うが、格差の元凶は様々であり、一筋縄ではいかないことを確認できれば十分である。

 しかし、前回述べた原則論を堅持するなら、所得減少の元凶ではなく、以下のような、所得向上現象にも目を向けておく必要があろう。
  ・IPO長者(華々しいから目立つが、例外的な存在と見た方がよかろう。)
  ・都会における夫婦共働き(正規従業員の場合)の増加
  ・高収入プロフェッショナル業務の大幅増加
    海外関係業務、金融の鞘取り業務、・・・

 何故、この現象を取り上げるかといえば、この人達を一括して、“勝ち組”とか、“拝金主義者”とみなし、毛嫌いする人が多いからである。
 間違った見方だと思う。この層は、タイミングがよかったと言えばその通りだが、一攫千金型の成功者は少数である。大多数は真面目に働いていているだけで、一般より数倍の所得を得ただけにすぎない。そのため、生活態度が変わる人もいるが、どこにでも、そんな人はいるものである。

 たいした能力もないのに、高収入はけしからんという想いは、心情的にはわからぬこともないが、危険な発想である。下手をすると、アキレス腱を切りかねないからだ。
 経済を伸ばすためには、この層を優遇し、働き易くし、ここに優秀な人材が集まるようにすべきなのに、逆流が強まっているようで、心配である。

 冷静になって考えればわかると思う。

 例えば、共働き。
 流石に、低給与のパートタイム職は該当しないかもしれぬが、共働きすれば家庭収入は倍になる。時間的余裕は大幅に減るが、それなりの質の高い生活を送れる筈である。消費も堅調に推移するから、この層の増加は歓迎すべき現象である。首都圏では、確実にそんな家庭が増えている。
 ところが、政治は、この流れを抑制してきた。扶養者の収入が増えると、税金が増えて損する仕組みであるし、この層のニーズに合わせた社会インフラ整備を妨害し続けてきたのである。
 しかし、政治的抑圧に抗して、ビジネスは立ち上がってきた。それでも、政治はなかなか変わらない。

 もう一つ問題なのは、いまもって、高給プロフェッショナルをつくりたくない大企業が多いこと。口ではイノベーションの時代と言いながら、労務管理が楽な、イノベーション創出に向かない仕組みを続けたいのが本音のようだ。
 あるいは、生産性向上はプロフェッショナルなどいなくても実現すると考えているのかもしれない。ゼネラリストが膨大な時間をかけて、文殊の知恵を出せば、競争に勝てると思っているとしたら、時代錯誤もはなはだしいが。
 これは、長期雇用のメリットを誤解していることを意味しているかもしれぬ。多くの人材のなかから、最高のプロフェッショナルを、時間をかけて選抜・育成するから、力が発揮できるのだが、ゼネラリストが活躍していると勘違いしてしまうのである。
 (ゼネラリストとは、どのように貢献できるかわからず、自分の能力にも自信が無い人のことである。グローバル競争の時代では、単純ワーカーと見なすしかない。もっとも、経営者がプロフェッショナルではないから、プロフェッショナルを使えないだけと見る人もいるが。)

 話が格差問題と違う方向に進んでいるように感じる人もいるかもしれないが、ここが一番重要なので、どうしても話が長くなる。
 こだわる理由は単純である。プロフェッショナルが増えない限り、経済発展のスピードが加速できないからだ。

 例えば、企業へのプロフェッショナル・サービスを考えるとよい。競争が激しいからサービス単価低下は進む。当然、サービス範囲の拡大が図られる。そうなれば、より役に立つ新サービスがどんどん生まれる。このことで、企業活動はより効率的になり、その動きも速くなる。言うまでもないが、新しい産業も興しやすくなる。
 これは、企業内部でもいえること。収益を左右するプロフェッショナル人材をより厚遇し、力を発揮する場を与える必要がある。そうすれば、競争力は自然に高まるものだ。

 要するに、プロフェッショナルの活躍場面を増やすことが、経済発展に繋がるのである。当然ながら、この流れに上手く乗った人は、収入が増える。ここだけ見ていれば、所得格差は拡大する方向になる。しかし、これは社会にはプラスである。
 この格差を縮小させてはならない。

 ちょっと考えれば、この重要性がわかる筈である。

 例えば、中国やインドの現地人を活用するスキルがあるだけで、儲けのチャンスはいくらでもある。そもそも、発展途上国の相手方は、先進国とつきあうだけで大富豪になれたりする。日本側の担当者が大富豪なっておかしくないのだ。こうした人材を薄給で遇し続けるなど、どうかしている。
 プロフェッショナルを厚遇しなければ、そのうち、収益に寄与しない人材の塊になりかねないのである。

 金融業界はもっともわかり易い。ここは製造業とは違い、金利差で儲ける類の業種である。
 要するに、この差をいち早く見つけ、リスクを勘案して、素早く儲けるのが仕事だ。チャンスは見つけたらすぐに活かさなければ、儲けは消えてしまう。一方、損がでそうなら、たちどころに処理するしかない。
 こんな業態でゼネラリストを抱えていて、競争になる訳がない。利益を生み出す人を厚遇できない企業は敗退するしかにのは明らかではないか。

 ところが、日本では、こうした意見を述べると“拝金主義者”とみなされ反感をかう。しかし、反感をかわない経営とは、恣意的にお金を回すことと同義である。腐敗への道をお勧めしているようなものである。

 マクロで見れば、日本には、お金は余っている。儲けのネタと、活用の知恵さえあれば、本来は大きな利益があがる産業なのだ。そうならないとしたら、プロフェッショナルがいないということではないのか。
 (だれにでもできる集金人が高給取りで、儲けてる人が薄給の仕組みを続けたい人が大勢いる産業なのかもしれない。)

 プロフェッショナル厚遇化は、拝金主義とは違う。経済発展のためには避けて通れない。
 グローバルな競争が本格化すれば、大学卒業というだけで、高給だったり、雇用を保証する仕組みが保てるはずがなかろう。プロフェッショナルか否かで、所得格差がでるのは当然なのである。
 米国では、大卒賃金が30年ぶりに減少したのも、その文脈で考えれば驚くような現象ではない。(2000〜2004年で5.2%下落)(1)
 この流れへの対応が遅れれば、そのツケは必ず回ってくる。

 とは言え、プロフェッショナル化の波に乗れなかった人にとっては、給与の差は開く一方だから、格差是正論を支持したくなる気持ちはわかる。
 しかし、だからといって、この流れを減速すべきではない。もちろん副作用は出るが、それは致し方ない。
 知恵を出せる人や、上手く波に乗れる人に経済を牽引してもらわなければこまるからだ。

 要するに、従業員全体の待遇改善の時代ではないのだ。人手が多いほうが儲かる時代は終わったからである。コア人材を厚遇し、育成強化することに力を入れなければ、将来はない。

 バブル期を振り返って欲しい。どう見ても、この時の格差は今よりずっと大きかった。
 しかし、収入は増加していたから、誰も何も言わなかった。それだけのことである。

 最重要課題は格差是正ではない。いかに経済発展の構造をつくるかである。
 端的に言えば、生産性向上の好循環をつくれるかが鍵である。

 これだけダラダラ書けば、何が言いたいのかはおわかりだと思う。
 格差是正は我々の生活にプラスにも、マイナスにも働くのである。格差是正というスローガンの危険性はここにある。

 プラスを目指す政策論者もいるが、そうでない勢力も一緒になって格差是正を叫んでいるから注意して欲しいのである。
 市場を壊したい政治勢力や、全体にはマイナスでも、自分だけプラスになろうと考える人達も、チャンス到来と騒がしいのだ。
 マスコミの耳目を集めるには、手っ取りから、致し方ない。

 ついでに、一言加えておこう。

 日本は、所得格差が少ない国だったと言われている。これもよく注意した方がよい。
 “移民の国”、米国と比べれば、日本はとてつもなく平等なのは間違いなかろう。しかし、1980年代でも、欧州の小国の方が、“実質”所得差は小さかった可能性は高い。
 ただ、大企業のサラリーマンは、海外企業と、社長、部長、新入社員、ワーカー、の給与差しか考えない。格差が小さいのは“実感”でもあり、その通りだ。
 しかし、これが国全体の代表例として妥当という証拠などない。

 ともあれ、所得格差問題で誤った方向にだけは進んで欲しくないものだ。

 ・・・しかし、おそらく、そうはいかない。
 もっと大きな問題があるからだ。
続く → (2006年9月13日予定)

 --- 参照 ---
(1) Molly Hennessy-Fiske: “That Raise Might Take 4 Years to Earn as Well〜
  Those with bachelor's degrees are finding their incomes stagnate despite a growing economy.”
  Los Angeles Times [2006.7.24]
  http://www.latimes.com/business/la-na-wages24jul24,0,2662782.story?coll=la-home-headlines


 「政治経済学」の目次へ>>>     トップ頁へ>>>
 
    (C) 1999-2006 RandDManagement.com