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2010.3.18
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日本の横笛考[その3]…

 篠笛と龍笛の話をしたが、実はもう一本前述した定義に当てはまる笛がある。
    ・管材が竹で、長さ30〜50cmの直管の横笛
    ・穴は歌口と7つの指孔

 それが、有名な能管である。ちょっと見には、龍笛の変形版。
 だが、能を鑑賞すれば、全く別な笛であることはすぐにわかる。とてつもなく甲高い音が鳴るからだ。奏法だけでそんな音が出る訳がない。
 普通は、高い音を出したいなら、ピッコロのように、短く細い管にするしかない。大きさを同じで音だけ高くするのは無理。
 そなれば、内部構造に工夫せざるを得ない。こんなことは、面倒だし、演奏は厄介になるのは明らかだら、わざわざ行うようなことはしないもの。調べたことはないが、世界広しといえども能管位しかないのでは。

 と言っても画期的なものという訳ではなく、管の内部に、もう一本細い管を挿入しただけのこと。と言っても、違う管を突っ込む訳にいかないから、手間である。安定した音が出にくい構造だが、それを無理して実現したのだから驚くべき設計。
 作り方の展示をどこかで見た覚えがあるが、実に面倒。こんなことまでする意味はなんなのか、疑問がフツフツと湧いてくる代物。
 能の解説書は五万とあるが、こんなことはどうでもよいのか、こちらがまともな本を読んでいないのか、この理由はずっとわからなかった。
 それが、何となく氷解したのは、何時のことだか忘れたが、能管奏者のインタビューを読んでいた時のこと。どんな練習をしているのか興味を持っていたこともあるのだが、驚いたことに、呼吸法が基本ではないのである。フルートなら腹式呼吸ができないとまともな音が鳴らないから、初心者は必ずその練習をするものだが、能管の場合はそれ以上に重要なものがあるのだ。
 それは、なんと声を出すこと。能管は息を吹き込んで鳴らすのではなく、管を使って声を出している訳だ。あの甲高い音は、能管の声なのである。

 しかし、声といっても、歌声には思えない。
 という事は、能管とはメロディー楽器ではなく、リズム楽器なのだ。お隣で演奏する打楽器の鼓の同類の楽器ということになる。笛であるにもかかわらず、音程より、音の緊張感を重視する演奏が要求だれるということ。
 無理な構造の笛にしている理由はここにある。能をご存知なら、それはおわかりだろう。鼓もヘンテコなのだから。
 普通は、大きな鼓は低音になるのだが、能は逆なのである。皮をとてつもなく強く張ることで小さな鼓より高音が出るのだ。なんでそこまでするのか理解しがたいものが、あるがそこまで精神を張り詰めないと能ではないということなのである。

 つまり、能管とは、精神性を高めるための道具。音楽を奏でるための楽器とは、本質的に違うものということになる。ここら辺りがわからないと、能はつまらぬものになろう。  もともと、能そのものが、通常の音楽とは似て非なるもの。どう考えても、旋律臭厳禁で、言葉だらけ。初めて聞くと、鼓の音と敬語ばかり耳に入ってきて、粗筋を追いながら今どこのシーンか眺めるしかできず、さっぱり面白くないが、それはオペラ的な見方をしてしまるからだ。
 能の“音楽”とは、言葉ということに気付くと、その意味がわかってくる。これは、古今集を読むのとなんら違いはない。黙読ではなく、声を出して“詠む”ようなもの。それこそが、日本古来の最高の音楽とされてきたのではないか。
 そこで一番重要なのは、言葉を“言霊”として大切に扱う緊張感だったのではないか。そして、五七五七五でわかるように、言葉が持つリズム感。日本音階とは、このリズムに合わせた、言葉の抑揚の音程にすぎまい。

 よく、古事記や万葉集に音楽の話がでてこないので不思議だという話になるが、記載されている文章そのものが音楽だとしたら、当たり前のこと。
 日本は、龍笛や能管のような分野だけ、開発・改良が集中していて、他の分野では細かな詰めばかりに映る。楽器に関しては極めて冷淡だ。それはこんなところに原因があるのではないか。

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