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2010.4.1
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日本の横笛考[その6]…

 専門家ではなくても、横笛だけで、この程度思い巡らすことは訳もない。それをご理解頂くために書いてきたのだが、ここからが肝心な点。

 それでは、日本文化の特徴はなんだと思うか、箇条書きで書いて見て欲しい。これが簡単にできないとしたら、全体感をつかむような読み方ができないということ。
 そうなるように訓練されてきたことを意味する。
 一方、すらすらと書けたら、もう一度じっくり考えてみることをお勧めしたい。それは詰め込まれた知識から引き出しているだけだったり、与えられた題材を短時間で分析・整理する習慣ができているだけかも知れぬから。
 自分の頭で考えるということはそう簡単ではないのだ。

 ご教訓めいた話をしてしまい失礼した。
 ともあれ、前回までの記述を終身に、順不同で特徴を抜き出し、コメントをつけてみた。ご参考になれば幸。

 一つ目は、たいして変わらないのに、色々と種類を増やす体質。
 新しいものが生まれたら、古いものを代替すればよさそうに思うが、そうはいかない。古いものもできる限り残そうとするのである。
 一見、保守的に見えるが、そうともいえまい。新しいものの取り入れには貪欲だからだ。
 だからといって、真似だけで、新しい試みを自ら打ち出す気は無いという訳でもない。日本独自としか言いようがないものも生み出しているからだ。

 結構、複雑なことが分ると思う。ステレオタイプの日本独自性とか、輸入文化の時代と国風文化の時代の斑模様が特徴と言う人もいるが、本当にそうかな。そんな大雑把な仕分けで本質に迫れるものか考えた方がよいと思うが。
 まあ、これについては、この辺りにしておこうか。

 二つ目は、音楽が身分で大きく違う点。どこの国でも階層があり、それぞれの音楽があるが、日本の場合は江戸幕府の治世が長かったため、それぞれの文化がそのまま残っている。公家、僧侶、武家、町衆、農民はかなり嗜好が違う。
 それなら、全く別物かといえば、そうでもなさそうだし、枕草子の時代から公家が農民の様子を面白く眺めていたりする訳で、独特の峻別感がありそうだ。

 三つ目は、「音楽」というジャンル別けを無視する姿勢。
 どうも、愛されてきたのは詩歌で、それは旋律よりは言葉と音程とイントネーション。笛の音とは、竹の声という感覚だったのではないか。能管のように、全体の一部を担う役割がおさまりがよいということ。
 笛に限らず、どうも西洋音楽とは嗜好が違う。オーケストラより室内楽、交響曲よりは協奏曲、なににもまして好きなのがオペラとなるようなものか。
 ただ、オペラは西洋歌舞伎と言った明治の文化人の見方はどんなものか。歌舞伎の面白さは、伝統文化に従っていながら、ビックリ仰天させる点にあり、核は筋と仕草。オペラのように作曲者が重要なのではなく、役者の仕草と言葉の発し方が肝。序曲、間奏曲、あるいはアリアといった音楽表現は皆無。
 だからといって、笛の演奏にたいした意味がないということではない。伝統を極めたものであればあるほど、役者の動きが引き立つからだ。鑑賞の肝が全く違うのだと思う。

 ここら辺りが錯綜するのも日本の一大特徴である。雅楽といっても、音楽は雑炊状態。種類を増やす体質だからそうなるともいえるが、それだけではない。
 龍笛にしても雅楽用とも言えない。と言って、演奏会用と考えても、種々雑多な使い方がされるから何がなんだか。西洋のジャンルで整理すると訳がわからなくなる。文学、詩歌、舞踏、演劇、祭祀、・・・が渾然一体化しており、笛はそこに絡んでくるだけのこと。
 笛の音楽だけを取り出して考えるべきではないのだと思う。

 四つ目は、竹素材にこだわったり、桜樺をつかったりと、笛の音に、霊的存在を感じる体質。伝統であるアニミズム精神を上手に新しい時代に溶け込ませているとも言える。
 仏教との習合で伝統の信仰をそのまま残したやり方はここでも生かされている。なにがなんでも竹であり、桜なのである。
 ゲルマン民族は改宗して、アニミズムを捨てたが、そういうことはできないのである。ブロックフルーテはその残滓と言えないこともないが、特定の木に対するこだわりは音質でしかないから、そう見なすのは無理があろう。ただ、木から生まれる音には相当な愛着があるのは間違いなさそうだ。

 まだ、考えれば色々ありそうだが、今回は、この辺りで止めておこう。

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