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■ 孤島国JAPAN ■ 2010.12.22 |
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日本語は雑種言語なのでは…〜 日本語の語彙には新造単語が多そうだ。 〜 日本語は双方向会話は、初心者でもすぐにできるとの話をした。 → 「日本語初級会話は至極簡単」 [2010.12.9] 要するに、お互いになんとかしてコミュニケーションを図りたいとの意志を確認しさえすれば、通じそうな単語を覚えておくだけで、日本語会話は成立するということ。ただ、楽なのはそこまで。 これなら習得は簡単だと甘く見て、一歩すすめようとすると思い違いに気付くのである。もちろん、敬語や微妙な言い回しを習得するのは大仕事だし、書き言葉を習得しようとしたら、とっぴょうしもなく難しいのは自明。その話ではない。これ以外にかなり高いバリアがあるのだ。 それは、語彙が集中していない点。簡単に言えば、他言語に比べ、かなりの数の単語を覚えないとなかなか上達感が味わえないのである。語学好きは感じないだろうが、これは、一般人にとってはつらかろう。
[外国語の単語1つを覚えたければ、14分間、繰り返し耳から頭に叩き込み続けるとよいそうだ。考えただけで頭が痛くなるが、その程度の時間を必要とするのだろう。] Y.Shtyrov: “Rapid Cortical Plasticity Underlying Novel Word Learning ” [The Journal of Neuroscience December 15, 2010] さあ、それでは5,000語覚えればなんとかと思ってしまうが、数字を見ると、そうはいかないことがわかる。他言語のカバー率に達しないのである。 その理由を考えてみると、思い当たるのは日本語の特質。 重複の言い方が多すぎるのである。灰色、鼠色、グレーのどれもが使わる社会である。一つにまとめればよさそうなものだが、このように並列のままのものが結構存在する。 このことは、新造語彙が結構多く含まれている言語であることを意味していそうだ。新語と廃れつつある旧語が同居してしまうのである。と言っても、多分、一個人でみれば、普段接している人達との会話では、5,000語でのカバー率は他言語とそれほど大きく変わらないのでは。ただ、これを、全体の統計に直すと、コミュニティ毎に新陳代謝の速度が違うから、カバー率が落ちるということではないか。 もしそうだとすると、日本語の場合、基礎5,000語の選定は極めて難しいことになる。どの語彙を覚えるべきかは、関心があるコミュニティに合わせて考えるしかないのである。一種の方言のようなものかも知れないが、初心者にとって厄介な問題なのは間違いなかろう。
しかも、それは現代特有の体質ではなさそうなのだ。外来語のバラエティを見ると、文字を輸入したころから染み付いていたようである。流行好きで、なんでも取り入れたがるのだ。今昔物語にも、いわゆるオノマトベ語がちょくちょく登場するが、これも当時の流行の言葉と見てよいのではないか。 ひょっとすると、この手の言葉のこだわりこそが日本人としての証しかも。これほどまで盛んな多言語は滅多にないのでは。 〜 新語導入に向いた音韻体系なのも一大特徴。 〜 そんな新語好き体質を考えると、日本語を世界の言語系譜で位置づけることができずにいるのも当然という気がしてくる。音韻分析手法を、日本語に適用可能かはなはだ疑問。 音韻感覚は母親を通して学ぶのだろうから、音韻法則がそう簡単に変わることは無いという理屈は素人でもわかるが、新語好きなのは、その音韻法則が人工的なものだからではないか。・・・話が、語彙の話から、急に音韻話に跳ぶように感じられるかも知れないが、実は、この両者の繋がりこそが日本語らしさではないかと思うからである。 他言語の場合、いつまでも伝統の音韻を残す傾向があるが、日本語の場合は真逆で音韻をルールに従い整理する慣わしがあるのではないか。言い換えれば、母音や子音の種類をできる限り減らし、音韻法則もできる限り簡素なものにするという考え方で進んできたということ。・・・だからこそ、新語創作と普及が容易なのでは。つまり、他の言語の単語でも、その発音を真似ることはなく、自分達が作った簡素な音韻ルールで新語に転換することになる。こんなことをするのは外来語とされているが、すべての古語にも行った可能性もあるのでは。つまり、日本語の古い発音はバッサリと切り捨てられていてもおかしくない。 このような特質を持つ言語だとしたら、音韻を検討して、言語の系列を見たりすれば、間違った結論に到達しかねまい。 だいたい、先島、沖縄本島、奄美といった島嶼に残る母音の数は一致しない。もちろん、本土とも違うのである。しかし、素人が見たところで、言語としては本土とたいした違いがあるようには思えない。それこそ方言かなと思うほど。この状態で音韻分析が機能するとは思えまい。 〜 日本語はどう見ても五十音表言語である。 〜 なぜ、当然のように、音韻分析の話を持ち出すのかといえば、ドラビダ語と日本語の類似性がこの結果から否定されているらしいから。小生は全くの素人だが、この結論はにわかに信じ難い。それは、ドラビダ語と日本語の語彙に類似性を感じているからではない。もっと根本的なところで同一性があると見ているからだ。 日本語の音韻上の一大特徴は、「子音+母音」が発音単位となる点。母音はaiueoの5音のみ。これが大原則。 欧米言語を習えば、これが自然体の発音でないことに気付く筈。つまり、現代日本語は、アイウエオ五十音表に無理矢理あわせて発音しているのだ。書き文字に合わせて音韻をコントロールする言語ということになる。この状態で音韻分析して、系統が見えてくるものだろうか。 〜 日本語の基層にはインド系言語がある。 〜 歴史的経緯は知らないが、日本は国家として、この五十音表を日本語発音の基本とすることに決定したのは間違いなかろう。カタカナ登場の頃か。 そんな政策を生み出したのは多分空海。中国で学んだインド伝来の「子音-母音」表を学んだ筈で、当時の日本語と比較検討したに違いない。「子音-母音」の発音単位(音節)を、日本語に当てはめると、おそらくピッタリ。帰国後、それを開陳し、皆ビックリというところでは。 (言うまでもないがインド伝来言語とはサンスクリット語。“梵語”と呼ばれ、今でも卒塔婆や護符として使われている。真言として、偶像以外の信仰対象にもされることがある。文字は“悉曇語”と呼ばれるものだという。) 万葉集ですでに確立している五七調の音数律とピッタりの文章でも紹介されたりしたら、それこそ仰天状したかも。仏教発祥の地は、日本人の源流との意識が高まり、死後に霊が西方浄土へと帰っていくとの実感がフツフツと湧いたのではあるまいか。 (「子音-母音」の歌は、漢語と違い韻をふむことはできない。数か、アクセントでの表現を重視するしかなかろう。寺田寅彦は「短歌の詩形」で、音数律の源流候補としてチュルク系の言語、サンスクリット語、アラビア語を探っており、“乱暴に読めば短歌風に読まれなくはない”という指摘は慧眼。これこそ、外来語日本語化の実像だからだ。本来の発音から言えば2文字にすべき語彙を、五十音規格化の都合上、3音にしたりするのだ。) その辺りを一寸考えてみたい。 日本の古代日本語の書物といえば万葉集。使われている文字は漢字だが、単なる表音文字で漢語ではない。ただ、文字の数は約2,000種類とかなり多い。漢字を、表音文字だけでなく表意文字や漢語としても使っているということか。一方、日本書紀などの公的文章はもっぱら漢語を用いていた。 それなら、全面的漢語化しそうにも思うが、レ点といった漢語の読み方を導入し、いわば翻訳文で読むことにした訳である。そして、それにも好都合なアイウエオ五十音表が登場することになる。簡単に書いてしまうが、革命的な動きだと思う。 つまり、外来語だろうが、なんだろうが、すべての語彙は五十音表で書き表すことを不文律化したのだから。これにより、当てはまりづらい発音の単語は消えるか、一番近い音に変化していったに違いない。表記は五十音表でも、発音はそれに従わない発音の語彙もあるが例外的存在なのである。その語彙だけは、どうしても発音しにくかったのだろう。 おわかりだろうか。 日本語は、「子音-母音」の表記方法と表裏一体の発音に徹する言語ということ。 この観点では、タイからインド亜大陸にかけて存在している数々のインド系言語と日本語は親類である。中国の言語とは全く異なると言ってよかろう。 インド系言語の表記方法は実に面白い。小生は、モルジブのリゾートで、タイでも働いていたことがある従業員から教わっただけなのだが、これは日本語と構造が同じだと気付いた。モルジブ文字は、極めて特殊に見える形なのだが、各子音を表す基本骨格に、母音マークをつけるという点では、他のインド系文字と同じなのである。つまり、「子音-母音」の一文字が形成される構造。子音と母音を覚えればすぶに発音できる訳だ。しかし、モルジブの言葉は近隣諸国とは全く違うのである。 日本の五十音の文字は漢字由来だからインド系とは違うが、「子音-母音」の一文字からなる言葉という意味では、インド系の言語と全く同類ということになる。 よりもよって、日本語は遠く離れたインド言語構造を取り入れていることになる。しかも、母音や子音の数をできる限り減らす方向で。 何故かを考えると、日本の特質が見えてくる。 孤島体質で独自性を保てるが、孤立は嫌いだったのである。と言うより、海外文化や異国の人には矢鱈に興味を覚える体質だったと思われる。地理的に侵略されにくいので、心配より物珍しさが勝っていたのかも。ともかかう、実利がありそうなら真似をすることには躊躇しなかったようだ。 言語も、その習性にあったものになっているとは言えまいか。多言語の言葉を簡単に取り入れるには、インド型の一番簡素なものが最善であるのは自明だからだ。それを意識して導入したように見えるが、実はそれ以前にすでにそうした素地ができあがっていて、インド型がヒッタリ嵌ったということなのでは。 要するに、どんな言語だろうが簡単に取り込める雑種言語ということ。こんな言語も珍しいのではなかろうか。 よく考えれば、漢字記載の万葉集にしてから、単なる表音記号もあれば、日本語的漢語発音の部分や、同一の意味の訓読箇所、面白文字遊び、といった具合でゴチャゴチャ詰め込んだ文章だらけ。専門家でも、どう読むか間違えそうな書き方である。つまり、この頃、すでに、気に入ったらなんでも早速取り入れる雑炊的な言語だったことになる。現在の日本人の体質となんらかわらない。 --- 参照 --- (1) 以下の文献からの孫引 1989年 [数字は小数点以下切捨て] http://www.jpf.go.jp/j/japanese/survey/tsushin/dw_pdfs/tushin30_p10-11.pdf 「孤島国JAPAN」の目次へ>>> 「超日本語大研究」へ>>> トップ頁へ>>> |
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