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2011.2.16
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日本の色彩感覚は全く違っていたのではないか…


 漢字の「赤」は「大」+「火」の合成単語。この訓音である"あか"は、コンセプトが全く違うそうだ。明(あか)/開(あけ)から来たとされている。確かに、そんな気がする。赤色を"あかいろ"と呼ぶ人はいないところからも、もともと色相を示す用語ではないことがわかるから。  要するに、夜明けの光を表現した言葉ということ。
 従って、太陽の色は赤となる。ただ赤色と呼べそうなのは、日の出と日の入りの特定の状況の時だけで、普通は黄金色に近かろう。欧州では、太陽の絵は黄色で描かれるが、こちらの方が自然な感じだ。

 要するに、日本の「赤」とは「色相」ではなく「明度」の用語ということになる。従って、世界の言語と、赤色の単語の発音を比較するなどナンセンス。
 「明度」なら、当然ながら、「赤」の正反対がある訳で、これが「黒」。言葉で言えば、「暮(くれ)/暗(くら)」の類似語になる。
 赤白で対比的に使うのは、実は可笑しい訳だ。と言うか、赤白ではなく、紅白なのだろう。この紅だが、もちろん「紅花」の色。訓音の"クレナイ"は、"呉(くれ)の藍(あい)"とされている。"暮れない"かと思ったがそうではないようだ。

 それでは日本語の「色相」表現はどうなっているかといえば、これは実用性と情緒感からいくらでも派生する。抽象的な「色」は無いと言ってよいのでは。だからこそ、日本の色彩感覚が豊かなのである。カラー分類を決め、その範囲を定める「色相」という用語は用いないのである。
 虹の色の数が、そうした色の眼鏡がどうなっているかを示す一例だが、七色と考えるのはおそらく多い方だろう。日本の場合、もっと多くてもよかったが、縁起かつぎで"七"にしただけだと思う。
 日本の場合、抽象的な色の概念はもともと嫌っていた可能性が高い。色相という概念が生まれたのは、身につけたり、付着してしまった"モノ"になんらかの社会的意味が生まれた時に必要になったということでは。つまり、日本の色相の基本は染色材料ということ。・・・植物原料としては、茜、紅、朱、紫、茶、藍、といくらでもありそうだし、染色用途に限らず、付着させたり発色させたりする鉱物類も色相を表わすものとされている。土(泥)、灰、金、銀、等いくらでもあろう。真珠、琥珀、瑪瑙といった装身具材料も色相表現には欠かせまい。

 こうした色感覚は中国の官僚制度導入から生まれたものかも。と言っても、中国の色彩感覚とは相当違う。
  → 「我的漢語」講座 "色彩"[2010.9.22]

 日本の場合は、花鳥風月的に自然を愛でること"命"の感覚が根付いているようであり、それぞれの対象毎に"色"がある訳で、"色"を抽象化しようと考えている訳ではなさそう。色には、そのもとである自然がついて回るから、「色相」と呼べる概念と言えるものなのかも疑わしい。実例など、思いつくものをあげるだけで、ズラーと並んでくる筈。
 花・実の類はとてつもなく多そう。・・・橙、蜜柑、檸檬、柿、桃、林檎、葡萄、芥子、山吹、薔薇、椿、桜、紅梅、牡丹、石竹、撫子、躑躅。
 鳥獣は都市化されてしまったから死語だらけだと思うが、今でも使われる色名は少なくない。・・・鶯、鳶、鴇、鼠、狐。
 風景については、捨てられない用語がある。・・・空、水、若草。
 その一方で、輸入の英語用語(カタカナ)も広く使われている。その方がお洒落感覚が生まれるようだ。

 こうして眺めると、「赤 v.s.黒」の「明度」と、「モノの名前」の「色相」で日本の色彩感覚の基本だできているような気になってくる。赤や黒は「明度」用語だから、"色"という接尾語をつける必要は無いし、モノではないから、"あかい"という形容詞にもなる訳だ。  そういう観点で考えると、黄色や緑色は基本色ではなく、モノからくる「色相」用語の一つにすぎない言葉といえそう。
 黄は黄蘗色か柿色辺りの用語か。
 緑は若芽が発祥という説が有力らしい。生々しく、瑞々しさがあるということで、「色相」として大いに好かれたため、緑色という用語が定着したのだろう。
 両者は三原色に該当するから、特別視されたという訳ではなさそうである。前者は階級制度上格段の扱いを受けたから独立的な色になったと思われるし、後者は、"清らか(清楚、清々)"感と結びついたため、重要な色とされたのだろ考えられる。

 赤・黒と、黄・緑・その他の色を取り上げたが、"色"という接尾辞不要の言葉が2つ残っている。白と青である。「明度」と「色相」以外のコンセプトを表わす言葉になる訳だ。
 そうなると、「彩度」が候補としてあげられる。黒白のモノトーンが無彩で、"純色"が最高の彩度という尺度で考えることになるが、「色相」に"純色"の感覚が無いからこれは無理筋。
 "白"が、無彩色でないとしたら、考えれれるのは"光る"という感覚。眩しく輝く状態を指している可能性が高い。現代は、「赤 v.s.黒」ではなく、「白 v.s.黒」だから、"白"は無垢という感覚の「色相」としてしまうが、全く違うコンセプトだったかも知れぬ。強く、鋭く、鮮烈で、神々しさを発揮するといったところでは。逆は、弱く、鈍く、くすんでいると表現できそう。
 といって、そんな対比的な表現が"青"に当たるとも思えない。しかし、「赤 v.s.黒」の存在を考えると、「白 v.s.青」と考えるのが自然。

 こうなると、結構難しいが、"青"が"淡(あわ)"の類語だとの説があると聞けば、なんとなくその反対である"白"の感覚が想像できる。"青"は軽くて薄い感じの色調を指すのだと思われる。英語表現では、weak, poor. faint, paleといったところか。決して明るい感覚のlightではないのである。青空とは透き通るような感覚であって、明るいブルーではないということ。
 ともあれ、「色相」ではないから、モノトーンでは灰色、赤色系では桃色、青色系では緑色が、「青」の範疇に入っておかしくない。
 同じように考えれば、「赤」には明るい色がすべて入っていた筈。イエロー、オレンジは当然ながら赤である。
 こんな風に考えると、"青"の対極に位置する筈の"白"の本質が見えてくる。ギラギラ輝くような状態を指していたのでは。  強烈な色であれば"白"と見なされたということ。現代的に表現すれば、"雲母(きらら)の彩"なら"白"の範疇。
 「白 v.s.青」尺度を言葉で表現するのは難しそうだが、実態的には「刺激度」か。

 どこまで、こんな素人話が通用するかはわからぬが、日本の色彩感覚とは、学校で教え込まれる「色」の常識とは相当違うことは間違いなさそう。


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