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■■■ 日本の基底文化を考える [2015.8.27] ■■■
ラーメン食文化の見方

「ラーメンの変遷を追って見た日本の現代史の記録」という、本の宣伝を兼ねた週刊誌記事に出くわした。
「ラーメンはいつからこんなに説教くさい食べものになってしまったのか 【まえがき公開】速水健朗=著『ラーメンと愛国』2015年08月10日 現代ビジネス

少々勝手に変えたが、こんな具合の変遷との指摘。・・・

店屋の名称は随分と変わった。
 南京そば屋@華僑居留地
  ↓
 支那そば屋
  ↓
 中華そば屋
  ↓
 ラーメン屋
  ↓
 麺処

当然ながら、内外装や食器類も全く異なる。
 赤地白抜き活字文字のれん & 赤色雷紋丼
  ↓
 黒地に手書き文字看板 & 無地食器

店員の格好も、そんなイメージに合わせたスタイルになった。
 白色料理人用作業着/コック帽
  ↓
 作務衣/タオル or 独自な黒Tシャツ/バンダナ

勿論、料理内容も同じではない。
 醤油---鳴門
  ↓
 味噌 or 塩バター---モヤシ or コーン
  ↓
 豚骨 or 豚脂---煮卵
  ↓
 豚骨&魚介
  ↓
 つけ麺スープ

これらは誰でも感じているそのママだが、面白いと思ったのは、ここにナショナリズムが感じ取れるとの見方。
たかだか一〇〇年あまりの歴史しか持たない食だというのに、何故に、国民食≠ニされ、注目を浴びるのか考えてみたらどうかということのようだ。

つまり、ここには、大きな時代感覚の変化が見てとれるというのである。
いわば、こんな流れかと。・・・

 中国大衆風食文化
  ↓
 米国的お気軽ファストフード食文化
  ↓
 説教くさい人生訓付食事文化

最後については、小生は実態はよくわからぬ。
行列ができる超有名ラーメン屋には、「人生は自己表現、ラーメンは生きる力の源」だとか、「ラーメンは俺の生き様」といった類のご宣託がこれ見よがしに表示されているとのこと。
小生など、そもそも、行列で待たされるような店や、混雑していそうなお店で食事をする気はさらさらないから、外壁の宣伝文句しか知らないが、新興宗教のようなスローガンに囲まれて食事をすることが嬉しい人が増えていることは間違いなさそう。

ただ、その現象の解釈にはよくわからぬところが多すぎる。と言うか、恣意的な見方に映るのである。(もっとも、本を読んではいないから、的外れかも知れぬが。)

特にそう思うのは、行列してまで食べたがるお店はラーメン屋に限らないからである。
その一例が、パンケーキ屋。朝食に並ぶのだそうである。
小生は、ラーメンをわざわざ食べに行く気はおこらないクチ。しかし、一流ホテルでの朝食ならパンケーキを選ぶし、ガーデンに面した閑静な場所ならブランチに行くことは厭わない体質。しかし、そんな日本人は少数派とずっと言われていた。
作り方で味と食感に大きく差がでるのは間違いないとはいえ、パンケーキに関心を持つ人は僅かだったのである。
   「洋菓子作りの第一歩[序]」[2009.4.8]
しかし、短期間に嗜好が様変わりしたのだ。・・・2010年に原宿で専門店が開店したところ大行列ができ、話題となったと思ったら、一挙に火がついたからだ。
まさか、パンケーキブームは反ナショナリズムの流れという訳にもいくまい。

小生は、両者は同根で、皆で群れて、話題を共有したいだけのことと見る。流行の話題で、薀蓄話ができるなら、なんでもよいということ。
「静かに」が不安な人が多いということでもあろう。
なにせ、雑踏のようなコーヒーショップのなかの狭苦しい席で、パソコンで仕事をしている人がいる位だ。まあ、他に手が無いから致し方なしという場合もあろうが。

そもそも、ラーメンとは、反和風の象徴的ファストフードでしかなかろう。それがどう変わろうと、ナショナリズムとは無縁な筈。

言うまでもないが、和風で行くなら盛りソバ。西洋や中華と違って、脂は無く、シンプルにして簡素。
従って、本来なら安価であるべきもの。しかし、今や、それは不可能。香りを感じさせる挽き立て蕎麦粉を用いて、山葵をつけて、まともに出汁を取ったものを提供しようとすれば、原価だけで、高級ラーメン2杯が食べられるレベルに達するからだ。従って、「蕎麦道」追求で訴求したくても、できかねるというだけでは。

そうそう、「一つの丼の中に食事のすべてを入れ込む日本人の料理観」と言う見方は間違っていると思うし、それをラーメンにまで拡張するなど無理筋では。

鉄火丼、イクラ丼、海鮮丼、漁師丼、と並べればおわかりだろう。入れ込む料理観で生まれたものなど一つもないからだ。どれも、単なるファストフードでしかない。
親子丼、カツ丼、天津丼(中華料理ではない.)、鰻丼、・・・などは、ハンバーガーやサンドイッチと同じようなもの。それを、「パンのなかに食事のすべてを入れ込む西洋人の料理観」から生まれたと見なすなら別だが。
要するに、丼食とは、狭い店内や屋台で、「箸」で掻き込む如くに急いで食べる必要性から発生したもの。それこそ、ナガラ食も可能ということ。
料理観から生まれたものではなかろう。
握り鮨では対応しきれないし、それなりにご飯の量も欲しいという要請もあるので、それに応えて丼で提供するようなもの。江戸のチラシ鮨はそういう類の食で、バラ鮨とは、発祥が違うのである。

ついでながら、「すべてを入れ込む」日本の食文化の典型とは、栄久庵憲司が指摘したように「幕の内弁当」。それなりにボリュームも追求する丼では実現しえない。何種類かのお数を詰め込んだ安価な塩鮭弁当の方が日本の食文化の典型ということになろう。
換言すれば、箱庭的に、色々な料理をチビチビ楽しむのが好きだということ。それこそがJAPAN流。

これと、古典的なラーメンでの、叉焼、支那竹、海苔、鳴門、法蓮草、葱のトッピング流儀を同一視すべきでなかろう。縮れ麺と鳴門の紅渦巻きなど、中華らしき風合いを出すためのもの以外のなにものでもないし、叉焼と支那竹こそが中華味ということになろう。強火調理せずに済む、中華擬きファストフードの工夫以上ではなかろう。そんなコンセプトのラーメンに「すべてを入れ込む」食思想が入り込む余地があるとは思えぬ。
麺でそのように見えるものは鍋焼き饂飩だが、これは雑多な食材を入れる寄せ鍋的なもの。それが日本食文化の基層に流れる「すべてを入れ込む」思想の訳がなかろう。

ご教訓ラーメン好きというのも、ナショナリズムといった思想性の流れとは全く異なり、マイルドヤンキーと同じような、一種の風俗にすぎまい。
本来なら、パンクやロックに、「真似」がある訳がないが、日本ではそれは通用しないことでもわかろう。それは、単なる風俗であり、真似が愉しいのである。
つまり、主張がある訳では無く、主張しているか如き風情に、皆で一緒に浸ることが嬉しいだけのこと。それこそが日本文化の一大特徴。

もっとも、そこが、これからの文化潮流に合っているといえなくもない。世界中の都市の定番食となる可能性を秘めていそう。
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