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■■■ 日本の基底文化を考える [2018.6.11] ■■■
蜘蛛をこよなく愛した人々[17]

現代タミル語の本は何冊か出版されており、立ち読みしてみると、現代日本語と発音上でよく似ているようだ。疑問文にする場合の文章構造もそっくりだし、擬音語・擬態語利用という点でも体質はソックリ。
特に印象深いのは、助詞を使って表現する方法がウリな点。古代語では文法が同じだった可能性を感じさせる。

そうは言っても、両者の歴史的交流の機会を示すような状況証拠は何も見つかっていない。従って、基幹は異なる言語と考えるしかなかろうが、なんらかの交流があったと見なすべきであろう。
  →「倭文の波紋」

と言うのは、日本語のなりたちには、不思議感が伴うからである。
地理的にも、交流という点でも日本語に一番近そうなのは、アイヌ語と朝鮮語。前者は確かに似ているといえそうだが、後者は学者がどう屁理屈をつけようが、似ていると感じる人はまずいまい。チベット語の方が余程似ている印象を与えるのだ。

マ、こんな話をするのは、「ささがね」がタミル語起源ではないかとの主張がなされているらしいから。
読んだことはないが、"タミル語でこれを解釈すると、実に適切な意味があぶり出される。"という主張の本があるらしい。
[田中孝顕:「ささがねの蜘蛛―意味不明の枕詞・神話を解いてわかる古代人の思考法 (古事記・日本書紀・万葉集と古代タミル語の饗宴)」幻冬舎 2008年]

と言うことで、一応触れておくかとなったにすぎない。

小生的には、以下の意見に賛同する。「ささがね」は外来語扱いされていそうにはないからだ。・・・
"意味不明な枕詞を解明する事によって逆に日本語がわかって来るのである。「まくら詞だから」と称して解釈を放棄してはならない。もちろん日本語枕詞は日本語で解釈出来るのであってタミル語のお世話になる必要はまったくない。意味不明なのは日本人が古い自分の国の言葉を忘れてしまっただけである。"
[鈴木健次:「バベルへの周遊」第121話ささがねの蜘蛛@2009.6.21]

尚、小生は、直観から、「ささがね」→「ささがに」とは考えない。"笹が根"としても、だれでもがそれは"細蟹"のこととわかるから、そう記載しただけのこと。"笹の根元に蜘蛛の網がありましてネ"と感じさせる言葉だからだ。
「細蟹」→「笹蟹」も同じようなもの。単に七夕の情景を感じさせる"笹"イメージを被せたにすぎまい。そのような言い換えやイメージ重層表現は、古代から現代まで、綿々と続いているのである。それが日本語の一大特徴であり、語彙の多義化や多種の読み替えが発生するのは当然の流れ。皆、それが大好きなのである。

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