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■■■ 日本の基底文化を考える [2018.7.24] ■■■
鳥崇拝時代のノスタルジー[14]
−可愛い潜り鳥−

"にほ"(/鳰/息長鳥/潜り鳥---カイツブリ)は、昼間活動型の淡水域潜り鳥。その代表と言ってよいだろう。従って、小生的には"水秀"を語源としたいところだ。

流れがある場所は生活圏外のようだが、遊び場にはしているようだ。
暮れてくると草叢に隠れてしまう。

食性的には、小魚がえらくお好きなご様子で、潜ると20秒は出てこない上に、予想外の場所に浮上してくるので見飽きない。
子供は親の背に乗ったりして遊ぶし、一列縦隊で泳いだりと、人気の秘訣を心得ている。
古代の暇人も同じ気分だったカモ。

足の形状やその使い方は、湖沼での観察ではほとんど見ることができないが、水面下から覗ける水族館の水槽で眺めると、これ見よがし的に平泳ぎで動き回ってくれる。まさにそれに適した形状なのだ。足で掻いて水にズブン、そのもの。
当然ながら脚の位置は尻に近く、重心から見て歩くのは超苦手だろう。巣も水面に造るしかない。
偶に飛ぶこともあるが、水面をバタバタと一所懸命に助走しなければ離水できない。水中から攻撃を受けた場合を除けば、逃げる先は水中しかない。

古事記では、琵琶湖が鳰の海(湖)と呼ばれているから、当時は膨大な群れが生活していたと見てよいだろう。[→]
ただ、縄張り意識が極めて強い鳥とされているから、どんな展開だったのか気になる。

と言うのは、都会の池ではそれなりに小集団化したりするから。繁殖中でなければ、他種への対抗上、子孫一同で集っているようにも見える。
マ、公園の池に棲んで、人馴れし過ぎているから参考にはならないが。

「萬葉集」ではこんな歌が収載されている。
天皇に献れる歌二首 [巻四#725]
にほ鳥の 潜く池水 心あらば 君に我が恋ふる 心示さね
[巻十四#3386]
葛飾 にほ鳥の早稲を 饗にへすとも その愛しきを 外に立てめやも
物に属きて思ひを発る歌一首、また短歌 [巻十五#3627]
朝されば 妹が手にまく 鏡なす・・・暁の 潮満ち来れば 葦辺には 鶴鳴き渡る 朝凪に 船出をせむと 船人も 水手も声呼び にほ鳥の なづさひ行けば 家島は 雲居に見えぬ・・・
寄物陳思 [巻十一#2492]
思ふにし 余りにしかば 鳰鳥の 足濡れ来しを 人見けむかも
天平元年己巳、攝津国の班田の史生丈部龍麻呂が経死し時、判官大伴宿祢三中みがよめる歌一首、また短歌 [巻三#443]
・・・躑躅花 にほへる君が にほ鳥の なづさひ来むと 立ちて居て・・・
日本挽歌一首、また短歌 [巻五#794]
大王の 遠の朝廷と・・・にほ鳥の 二人並び居 語らひし 心背きて 家離りいます
・・・先の件の数条を謹み案ふるに、建法の基、化道の源なり。然れば則ち義夫の道、情存して別無く、一家財を同じくす。豈旧きを忘れ新しきを愛しむる志あるべしや。所以数行の歌を綴作み、旧きを棄る惑を悔いしむ。その詞に曰く、 [巻十八#4106]
大汝 少彦名の 神代より・・・紐の緒の いつがり合ひて にほ鳥の 二人並び居 奈呉の海の 奥を深めて・・・
天平勝寶八歳丙申、二月朔乙酉廿四日戊申、太上天皇<太>皇太后、河内の離宮に幸行して、信信を経て、壬子に難波の宮に伝幸し、三月の七日、河内の国の伎人郷の馬史國人が家にて、宴したまへるときの歌三首 [巻二十#4458]
にほ鳥の 息長川は 絶えぬとも 君に語らむ 言尽きめやも

"しなが鳥"と"やさか鳥"も、息長の意味であるから、含めるべきとされているようだ。
攝津作 [巻七#1140]
しなが鳥 猪名野を来れば 有馬山 夕霧立ちぬ 宿りは無くして
覊旅作 [巻七#1189]
大海に 嵐な吹きそ しなが鳥 猪名の湊に 舟泊つるまで
寄物陳思 [巻十一#2708]
しなが鳥 猪名山響に 行く水の 名のみ寄そりし 隠り妻はも
上総の周淮の珠名娘子を詠める歌一首 、また短歌 [巻九#1738]
尻長鳥 安房に継ぎたる 梓弓・・・
[巻十四#3527]
沖に住も 小鴨のもころ 八尺鳥 息づく妹を 置きて来のかも

Wikisource 万葉集 鹿持雅澄訓訂 1891年)
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