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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.10.15] ■■■
[附 37] 嫌味な間違い
「今昔物語集」編纂者が一介の僧ということは、およそ考えにくい。
1,000譚もあって、原稿用紙や情報メモに必要な量だけでも、とりあえず出家しているような僧に用意できるものではないし、白楽天や段成式のように、整理・筆記役の人を抱えない限りとても作れるものではない。現代の出版とは違い、パトロンなき御仁ができるような仕事ではない。
それに、書籍に自由にあたれる境遇の人は限られている。自分の座右に置く書とは写本であり、写本屋に頼めばよいだけではあるが、費用も嵩むし、その種類はそう多いものではない。現代のように、一寸、図書館に行って調べる訳にはいかないのである。
そんな状況で、後から調べて穴埋めする方法がとられるとは思えない。唐の場合、現代で言えばカード式のメモを集積しておいて、それを整理し文章化した上で、草稿として仕上げた上で編纂していたようで、手法は同じだろう。
それを考えると、「今昔物語集」は草稿の体裁をとっているだけとみるしかなかろう。

つまり、穴埋め問題方式にしているようなもの。正解は結構難しいですナ、といったところ。要するに、この手の伝承譚には潤色は当たり前ですが、なんらかの事実を反映しているのです、と書いたに過ぎまい。
  昔々、ある所にお爺さんが住んでおりました。
  今昔、__天皇代、__の国に、__と云う翁ありけり。


ただ、そう確信しているのは、こうした状況を踏まえているだけではない。
間違いが矢鱈に多いのである。なかには常識外れと言ってよさそうなものもあり、編纂者の教養レベルが極めて低いと見なすしかないが、それは考えにくかろう。
つまり、かなり特殊な本なのである。

そこで、小生は、故意にそのような出鱈目さをつくり出していると見た。どうせ、サロンでの談笑のタネだからということもあり、下手に真面目に問題を取り上げでもして、感情的対立を引き起こすのもこまるし。それに、間違いだらけなら、これは噂話の聞き取り草稿に過ぎません、ということで、ヤリ玉にあげられるリスクも減る訳で。
暴力的に口封じする時代に入って来たから、それは結構利口なやり方かも。

いかにも、そう感じさせられた譚で、その辺りをご説明しておこう。
  【本朝仏法部】巻十四本朝 付仏法(法華経の霊験譚
  [巻十四#_1]為救無空律師枇杷大臣写法花語📖枇杷殿
  比叡の山に無空律師と云ふ人有けり。・・・
  僧綱の位まで成にけれども、・・・
  枇杷の大臣[藤原仲平]・・・彼の律師と年来師檀の契り深く


無空という名称は、一度聞けば忘れようがないだろう。
"無"も"空"もまさに仏教用語だからだ。従って、すでに使われていることがわかっていて、同じ命名をすることは先ずあるまい。検索でも一人しかあがってこないようだし。
小生のように浅学であると全く知らぬが、高野山初期のトップであるから間違いなく高名な僧である。「今昔物語集」成立時は高野山は沈没気味だったようだが、それでも、空海の直弟子がいた時代の僧であるから、駆け出しでも"真言宗の僧"と知っている筈。

にもかかわらず、"比叡の山"の僧としている。

どこから引いて来た話か調べていないが、このような間違いがなされている書はありえまい。と言うより、わざわざ寺の名前を書くこと自体考えにくい。
つまり、この部分は「今昔物語集」だけ"間違って"書かれているということになる。・・・そんなミスが発生する理由が考えつかない。
嫌がらせ的な間違いと考えるしかなかろう。

そうだとすれば、もしかすると、ここはなんらかの笑いをさそう箇所として設定されているのかも。

この僧のつまらぬ執着で高野山の評価が下がってしまい、真言宗の代表は東寺との世評が確定したということで。
もっとも、真雅の経典を巡って、[4]無空 v.s. [6]観賢の勢力争いがあったというのが実態かもしれぬが、よくわからない。少なくとも、系譜的には、[4]無空-[5]峰禅という"山"派から、醍醐や東寺といった"宮"中心派の[6]観賢系譜に絞られてしまったのは間違いなさそう。それが切欠になったのかは定かではないが、この頃から、山での修行は比叡との流れが生まれてしまったのかも。
比叡山が重用されるようになれば、必然的に高野山は低迷化を余儀なくされる。そこで、覚鑁/興教大師[1095-1143年]が一大改革に乗り出さざるを得なくなったと言われている。📖本朝仏教の母
空海以後、新しい思想が生まれないと言われている真言宗だが、それを突き破った僧らしい。(大日如来本地法身説に対して自性加持説という新義を唱えた。)
浄土往生思想を教義に取り込んだのだろうが、真言宗のトップの地位についた途端に、熾烈な内部抗争勃発。分裂を招いてしまう。
「今昔物語集」編纂者は、そんなこともありそうと見ていたかも。根底になんらかの思想的対立があるものの、そこには組織としてどう展開すべきかの悩みを包含している訳で。
   [巻三#_5] 舎利仏 v.s. 目連
   [巻十一#12] 山門 v.s. 寺門
   [巻十四#40] 空海 v.s.修円
   [巻三十一#23/24] 比叡山 v.s. 興福寺末寺 多武峯・祇園


と言うことで、真言宗に於ける高野山実質2代目のポジションかわかるよう真言宗の僧をまとめてみた。現代の寺とのつながりがわかるようにしてみた。(雑多な孫引き情報を強引に整理したものであり、間違いだらけの可能性大。)

●空海/弘法大師[774-835年] 造東寺/教王護国寺所別当 初代金剛峯寺座主
├□[比叡]泰範[778年-n.a.]…最澄を継ぐとみられていた。
├◎円明[n.a.-861年]、◎忠延[n.a.-837年]、◎真然、
│ 堅恵、真泰、道昌、如意尼、真際、真境、真体
〇常暁…入唐八家
〇円行/伝灯大法師[799-852年]…入唐八家 山城霊巌寺開基 天王寺初代別当
├◎実慧/道興大師[786-847年 空海一族]…観心寺@河内 東寺初代別当836年
│├〇慧運[798-869年]…入唐八家 安祥寺 安祥寺[巻十三#23]
│└〇真紹
└□[比叡]宗叡…入唐八家
┼┼└〇益信/本覚大師…円成寺 仁和寺/御室(宇多法皇)仁和寺[巻十五#54]
┼┼┼└〇寛朝…遍照寺@広沢
┼┼┼┼└・・・・・<御室>
┼┼┼┼┼└〇覚鑁[1095-1144年]@伝法院…1134年金剛峯寺座主
┼┼┼┼┼┼┼┼…「月輪観」「五輪九字明秘密釈」 【新義真言宗】
├◎真如[n.a.-865年 平城天皇第3皇子高岳親王]
│└〇恒寂/恒貞親王[825-884年淳和天皇第2皇子]
┼┼…876年大覚寺開山(以後後嵯峨・亀山・後宇多系)<大覚寺>
├◎真済[800-886年]…神護寺
├◎智泉[789-825年]…報恩院 岩船寺
├◎杲隣[767年-na.]…伊豆修善寺 京都修学寺
├◎道雄[n.a.-851年]…海印寺 (日本華厳7祖)📖新羅仏教の特質
└●真雅/法光大師[801-879年]
東大寺真言院
弘福寺、嘉祥寺西院/観寺(藤原良房)
├〇真然[n.a.-891年 空海の甥]…2代金剛峯寺座主
│├〇寿長…3代金剛峯寺座主
│└〇無空[n.a.-916年]…4代金剛峯寺座主
├〇真皎、載宝、慧宿
└●源仁[818-887年]
┼┼├〇"広沢流"↑益信<御室>
┼┼└①"小野流"聖宝/理源大師[832-909年]…醍醐寺@高雄山開基
┼┼┼┼┼┼┼【修験道当山派】   📖三論成実論伝法僧
┼┼┼
┼┼┼└②観賢[854-925年]…東寺長者 般若寺創建 …6代金剛峯寺座主
┼┼┼┼石山寺密教化([華厳宗]東大寺開山の良弁[689-774年]開基)
┼┼┼┼石山寺[巻十五#13][巻十六#18][巻十六#22]
┼┼┼┼├・・・・・ <東寺>
┼┼┼┼┼└〇"随心院流"↓仁海[951-1046年]…曼荼羅寺/随心院@小野
┼┼┼┼┼┼└〇成尊/小野僧都[1074-1012年]
┼┼┼┼┼┼┼├〇"中院流"明算[1021-1106年]
┼┼┼┼┼┼┼│  …20代金剛峯寺座主<高野山>
┼┼┼┼┼┼┼├〇範俊
┼┼┼┼┼┼┼└〇義範[1023-1088年]…醍醐寺遍智院創建
┼┼┼┼┼┼┼┼└⑮勝覚[1057-1129年源俊房子]<醍醐寺>
┼┼┼┼┼┼┼┼┼│ …醍醐寺灌頂院/三宝院創建
┼┼┼┼┼┼┼┼┼│ 醍醐寺[巻十四#12][巻十五#14][巻十六#36]
┼┼┼┼┼┼┼┼┼└〇賢覚[1080-1156年]@醍醐寺理性院[父 賢円住房]
┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼└〇(覚鑁)
┌───┘
"随心院流"↑増俊[1084-1165年]<善通寺>
"厳覚門流"宗意[1074-1148年]<安祥寺>↑
┼┼[法相]承俊[1][n.a.-906年]
┼┼┼┼…900年 勧修寺@山階(醍醐天皇勅願)勧修寺[巻二十二#7]
┼┼⇒・・⇒
"勧修寺流"寛信[7][1084-1153年 藤原為房子]東寺長者<山階>
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┼┼神修@法臨寺/林寺⇒ 仙遊寺[伝856年 藤原緒嗣菩提寺]
┼┼⇒(荒廃)⇒
〇神[1166-1227年]御寺泉涌寺@月輪山[1218年再興]<泉涌寺>
[天台系修行者(沙弥)]明練/命蓮[9世紀末〜10世紀前半]
      …朝護孫子寺@信貴山中興(開基:伝聖徳太子)
信貴山[巻十一#36]<信貴山>
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【新義系】
覚鑁↑<根来寺>
┼┼[華厳宗]道明…伝686年長谷寺@初瀬創建
┼┼⇒法相宗⇒
[真言宗豊山派]専誉<長谷寺>
[真言宗智山派]玄有@智積院<智積院>

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