→INDEX ■■■ 今昔物語集の由来 [2020.10.9] ■■■ [附 32] 悪意の伊吹山譚 すでに述べたが、「酉陽雑俎」と同じで、本来は"註"で読むべき書物なのだ。 そろそろ、その典型例を紹介してもよい頃合いだろう。 すでに取り上げた譚である。・・・ 【本朝仏法部】巻二十本朝 付仏法(天狗・狐・蛇 冥界の往還 因果応報) ●[巻二十#12]伊吹山三修禅師得天狗迎📖天狗 美濃伊吹山で念仏を唱える以外なにもしない三修禅師が ついに阿弥陀来訪と考えていたら 天狗に騙されただけだった。 弟子が木に縛られた師を見つけたのである。 伊吹山山頂は確かに、お迎えが来そうな場所ではある。古代からの地場信仰の山上他界観がからむからだ。それは、仏教浄土往生観とは本来的には異なるものだが、そこらで騙されたという話に仕立てられている。そして、騙されたのは知恵無しの念仏行者だったから、とされる訳だ。 こんな風に。・・・ 【三修の紹介】 其の山に久く行ふ聖人有けり。 心に智り無くして、法文を学ばず。 只、弥陀の念仏を唱ふるより外の事を知らず。 名をば三修禅師とぞ云ひける。 他念無く念仏を唱へて、多の年を経にけり。 【ご教訓】 心を発して、貴き聖人也と云へども、 智慮無ければ、此くぞ天狗に謀られける。 クドイが、自由精神を愛するインテリ向け書物であり、この譚を"信仰か 学びか"と言う話として検討しても意味は薄い。ましてや、ご教訓をまともに取ったりすれば、せっかくの価値が台無し。 冗談なのだから。 どうであれ、いかにシリアスな話であっても、「今昔物語集」編纂者は底抜けに明るく楽し気。そこがこの本の真骨頂。 従って、サロンの人々はここで大笑いするのである。 そして、こうも言い合う。 それにしても、箸にも棒にもかからない輩にはこまったものだ、と。マ、それは変えようがないよナ、という具合。 その様な読者にとっては当たり前のことだが、三修[828-899年]とは真言密教僧のエリート。そんじょそこらの"小僧"とはレベルが違う。 揶揄しているとしか思えまい。 伊吹山入山時は、おそらく真言宗宗叡の弟子の東大寺僧。満を持して伊吹山に。そして、寺院再興を果たし、朝廷を説得し定額寺化を実現。弥高百坊と呼ばれる湖北の学問聖地を作り上げたのである。そこは、同時に、本朝有数の修験の拠点でもある。 そして、東寺僧としても供養の法会に参加していたのである。但し、古くは、顕教の法相宗明詮@元興寺玉華院(弥勒信仰)の弟子でもあった。📖興福寺僧一瞥[改訂] いかに悪意ある紹介かわかる筈。それを、わざわざ収録したのである。 これこそが本朝の体質そのもの、として開陳した訳である。 これだけではあまりに不親切なので、どのような状況かもう少し詳しい、註記をつくってみよう。 先ずは場所から。 <伊吹山> 「古事記」では、伊服岐能山の白猪が大氷雨で倭建命を絶命させる。「今昔物語集」では無視であるものの、都の住民から見れば聖なる深山の1つである。📖野猪 日枝山/比叡山 比良山 伊服岐能山/伊吹山 愛宕護山 神峯山@摂津 金峯山 高野山 仏教的には、673年に役行者開山ということになろうが、697年の文武天皇勅願寺"護国寺"が、現実的な仏教化だろう。この頃、全国に勅願寺が生まれた訳で、特別扱いされた訳ではないと思う。 想像に過ぎぬが、伊吹社+三之宮(頂上弥勒堂・二合目磐座・山麓拝殿)が整備され、僧が入り、山上の祖霊信仰が仏像信仰と習合したと考えるのがわかり易かろう。 修験道的な仏教が本格化した時代はもう少し後世のようで、746年の泰澄/越の大徳[682-767年]による再興がそれにあたりそう。白山信仰を立ち上げた僧である。📖国上山の泰澄大徳 続いて、密教の方を見てみよう。 <慧運+宗叡> 密教では、高僧とは入唐八家と決まっており動かしようがない。(真言密教は師資相承であり、系譜がなによりも重要となる。) 【東密】空海、常暁、圓行、 慧運/安祥寺僧都[798-869年]、宗叡/禅林寺僧正[東大寺別当/東寺長者809-884年] 【台密】最澄、円仁、円珍 そして、子弟関係はこんな具合。・・・ <安祥寺/高野堂@山階>文徳天皇母藤原順子発願 慧運開基 856年 阿闍梨2名…慧運、その弟子三修 <東寺> [別当]弘法大師⇒實恵⇒真済⇒真紹⇒宗叡 [定額僧]〃、圓行、慧運、・・・三修、・・・ そして、三修入山の流れを見ておこう。 <三修律師> 入山は852年。おそらく、東大寺僧としてだろう。伊吹山護国寺整備ということで。 どのように進めたのかは不明瞭だが、3寺体制を敷いたのでは。(弥高悉地院+長尾惣持寺+太平観音堂) 阿弥陀信仰とされているのは、これらに加えて、伊富貴山観音護国寺を別途創建したからだろう。 全て、真言宗一色であり、陽成天皇代878年に定額寺(寺領三千石鷲目三千貫)となった。 そんなこともあって、三修は確固たる地位を占めるに至ったのである。 興福寺維摩会講師894年 権律師受任895年 そうそう。 この譚での、「今昔物語集」編纂者の主張だが、全体を眺めていると見えてくるようにできている。・・・ "こんな誹謗をしていると、善行の甲斐なく、地獄行かも。" (C) 2020 RandDManagement.com →HOME |