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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.9.10] ■■■
[附 27] 印度仏教消滅原因[5]
仏教はインド亜大陸で事実上消滅してしまったが、世界宗教としてその信仰が受け継がれている。

「今昔物語集」の三国観に触れると、マ、そうならざるを得まいと思ったりもする。
その点では画期的な書である。

全体を読み通すと、見えてくるのは、先ずは"法"を理解する社会か否かという見方。
ここで言う"法"とは、過去-現在-未来の3世を貫く因果の理のこと。

ところが、ここには輪廻転生という大前提があり、この観念なしには、因果の理は色あせたものになってしまう。

「今昔物語集」はそこらを十分考慮し、三国観が得られるように書かれているように見える。

【本朝】では、仏教伝来以前については一言も触れられていない。せいぜいが万葉集の名前をあげる程度。これは当然のことで、輪廻転生なる観念など皆無だったからだ。
常識的には、コペルニクス的転回であるから、受け入れることは難しそうに思ってしまうが、よく考えると実はそうでもない。
「古事記」を読む限りにおいて、宇宙の創造神が存在している形跡は皆無だし、神は大勢存在し、人とも同一の場で交流する極めて近しい存在だからだ。
しかし、"転生"についてはさぞ驚いたに違いない。それでも、さもありなん的に受け入れることは可能だろう。受け入れない人も少なくなかったろうが、かといって、そんな見方に反感を覚える体質でもなさそう。
それでも仏教国化する障害は少なくなかったが、天皇家・貴族では聖徳太子、宗教家は役行者、民衆接点は行基が登場して一気に仏教帰依者が広がり、仏教国としての基盤が整ったというのが「今昔物語集」的理解だろう。

一方、本家本元の【天竺】だが、輪廻の観念自体は仏教以前からのもの。
ただ、ベーダ経典教は、転生と身分制が直結していた。つまり、来世の転生でよりよき者になれるように、ということでの祭祀や修行はもともと存在しており、それに関する仕来たりは婆羅門がとりしきっていた。
このことは、死後に転生先を決める場があり、そこでの決定に影響を与えるためにどのようにすればよいかは婆羅門集団の知恵に頼っていたことを意味する。そうは言っても、異なる身分に転生できる可能性があるのは、社会の上層のみで、下層は同一職業に留まる。それでも、よりよき転生を願うためにも、祭祀は欠かせない。
仏教は、ここにメスを入れた訳だ。
しかし、現世における職業身分の固定化はなんら変わることはなかった。仏教教団のなかだけ身分から自由になれるというに過ぎなかったのである。ただ、もともと出家苦行者は大勢いる社会であり、そのような沙弥の出自にたいした意味あいがある筈がなかろう。
従って、一般大衆が、仏教教団の姿勢を画期的と見ていたと言ってよいのかはなんとも言い難い。仏教によって、異なる身分に転生するとの実感が生まれたのか、よくわからないところがあるからだ。仏教は、目指す転生先は、そんな話ではなく浄土であり、人間界から落とされるなと説教したのであるが、人間界なら、又、同じ職業ということになるのかが明確ではない。
そんなことを考えると、輪廻からの解脱がこの層の琴線に触れたかはなんとも言い難いところがあろう。
人口分布から考えれば、下層が7〜8割でもおかしくなかろうから、仏教が普及したと言ってもその実態は本朝とはいささか様子が違うと考えた方がよいだろう。

もともと輪廻宗教の国であり、各地区毎の伝承神話は輪廻とリンクしている筈。ベーダ経典と周辺の叙事詩は拡張するだけでこうした神話を取り込めるが、仏教はそう簡単にはいくまい。釈尊の詞で取り上げられているのはメジャーな神だけだからだ。しかも、地場のマイナーな神は、すでに輪廻観念の上に乗っている信仰対象だから、本朝のように、神仏混淆を図ることも難しかろう。仏教より、地場神の統合代表をご本尊とする信仰の方がしっくりくるのは自明。

従って、社会の上層が仏教から離れる動きを始めると、非仏教の輪廻宗教観で執り行われる日常的祭祀の世界がドッと広がることになろう。それが始まってしまえば、上層の意向でなんとかなるものではなく、上層もそれに合わせる動きしかとれないだろう。
その結果、仏教は忘却のかなたに。
ということで本家では仏教は消滅するが、輪廻観に繋がる神話に基づく祭祀が行われていない地なら、このような流れは起きようがなかろう。
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