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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.8.20] ■■■
[附 25] 印度仏教消滅原因[3]
インド亜大陸から仏教が消える際に、最後まで残った地域とはベンガル。もちろん、アショーカ王支配下の最東にあたる。
大型河川のデルタ地帯で、2〜3毛作の稲作地帯だ。現在の、イスラム教国バングラデシュ。人種的には、おそらく、ガンジス中流ヒンドスタンからの移入者のアーリア系、低地土着民のドラヴィダ系、丘陵地土着民のチベット-ビルマ系が融合しているのだろう。

この地の民は少数の例外を除いてイスラムに改宗したことを意味しよう。

仏教僧は出家者であり、婆羅門のように口承の祭祀家系の一員ではないから、一掃されると復活は難しいことがよくわかる。
それにしてもあっけない幕切れ。アショーカ王の理想主義を髣髴させるものがある。
国権が失われてしまうと、僧の殺戮、伽藍の破壊が始まっても、無抵抗でなすがママだったように映るからだ。

さらに、侵攻勢力が、アラブの世襲型ではない、政教一致救済型宗教のだったことも、この事態を招いた大きな要因といえそう。
仏教は、名目的には平等思想ではあるものの、社会の実態はなんらかわっていなかったからである。祭祀一族が生まれながらに浄にして最上位で、民衆は賤にして最下位の身分という状況はなんらかわらず、細分化された職業で分断された社会構造が固定化されていたからである。
婆羅門が従うなら、救済型宗教への改宗に対して反感が生まれなかった可能性もあろう。救済型とは、個人の神への信仰告白ありきで、入信後の改宗は死をもってあがなうことになる上に、イスラム政治は部族制との親和性が高い点も特徴だから、イスラム社会化は一気に進んでしまったのだと思う。

仏教が、どうしてここまで弱体化したのかという点については、僧が思想・哲学に傾注しすぎて、民との紐帯教化を怠ったという見方が多いようだ。

確かに、それは言えそうだ。

「今昔物語集」には、6世紀頃の天竺でのそうした議論が収載されている。どちらが正しいという対立であり、衆生をどう救うべきかという慈悲心から行われているようには映らないように記載されている。[→諸法皆空]
つまり、"諸法は空也 v.s. 有也"という形而上学的議論が盛んだったのである。
馬鳴―龍樹[150-250年]から無著[310-390年][弟}世親に至るまで、大乗の僧は思想・哲学を深めることに注力していたと見なしていそう。

そうなると、大乗と称しながら、大衆遊離にも気付かない僧だらけということになるが、それは考えにくかろう。気付いている僧がいても組織的に動ける状況ではなかったと見た方が当たっているのでは。
パトロンは長者層であり、在家信者とは都城住民とその周囲であるから、底辺層救済宗教への道へと進みようがなかったと考えるのが自然だ。
大乗の発祥は多分1世紀で、それから長期間かけて大乗僧の数が増えていったのだから、一派を形成してもよかった筈だが、この問題を突破できなかったので、教義議論に集中することになってしまった、ということ。驚くことに、7世紀になっても、大乗教団は無かったのだ。・・・
  諸部流派生起不同,西國相承大綱唯四。
    1. 大衆部 7分派
    2. 上座部 3分派
    3. 根本説一切有部 4分派
    4. 正量部 4分派
  摩陀則四部通習,有部最盛。
  :
  其四部之中,
大乘小乘區分不定。
  :
  所云大乘,無過二種:
  一則中觀、二乃瑜伽,
  中觀則俗有真空體虚如幻,瑜伽則外無内有事皆唯識

    [義浄:「南海寄歸内法傳」691年 序]

思うに、だからこそ生まれたのが、山のような大乗経典集「般若経」と言えるのではなかろうか。
これで、バラバラの活動だった大乗僧をまとめて、一気に教団全体の大乗化を図ろうとしたのだろう。そのとてつもない注力度合いと、真剣さを勘定にいれると、もう後が無いという気分だったのではなかろうか。

本朝で言えば、最澄・空海の動きのようなもの。

多分、天竺では、かなりの時間がかかったと思うが、サンスクリットの大乗経典"論"が数多く残っているところを見ると、それなりに進んだと思う。
しかし、これが裏目に出たのでは。

それは、仏教僧に数多くの婆羅門が入って来ていたから。(龍樹も拘薩羅国婆羅門出身である。)
衆生救済に大きく振ると、祭祀生業ということで、様々な儀式を行って来た人々は、そのセンスで対応を始めるからだ。これは、仏教の体質を一変させることになろう。つまり、婆羅門の行っている祭祀に仏教が関与する流れが生まれるということ。
そのためには、転換を必要とした筈である。例えば、稲の収穫豊穣祭に関与することにもなってくるのだから。
釈尊の時代の苦悩とは、とてつもない数で頻繁に発生する出産死・病死・早死に係わるものが中心だったようで、欲望や瞋恚を抑制することで心の平安を保とうとの姿勢は、大衆的にも受け入れ易い。それが、侵略や身分がもたらす生活上の苦しみに延長できるかははなはだ難しい問題であろう。救済宗教は、これに信仰で堪えよ、と語りかけたのだが、方向としてはもう一つあり、現実を受け入れて、そこに嬉しさを感じ取ることで精神的苦痛から解放されることもあるからだ。
婆羅門出自の僧はそちらへの転換を考える傾向があり、大乗の流れはそちらに大きく傾いたのではあるまいか。

そんな考え方の核が生まれたのはかなり古そうである。これが密教の端緒かも。
  不空[譯]:「般若理趣經
     /大樂金剛不空真實三摩耶經」般若波羅蜜多理趣品763-771年@大興善寺
  (玄奘[譯]:「大般若波羅蜜多經」(578巻)第十會般若理趣分660-663年)
  【論】不空[譯]金剛薩[撰]:「理趣釈」

性愛賛歌と殺人肯定とも読める経文であるが、本朝ではよく知られる基本経典の一つである。空海は、直観的にその本質を見抜いたようで、取扱には慎重である。尚、曼荼羅では女尊だらけの会なので、素人からすれば、なにを意味しているのかさっぱりわからぬ箇所である。
  →[曼荼羅を知る 7]金剛界曼荼羅 理趣会

現代ヒンドゥー教の隆盛はココからの可能性もあろう。性愛賛歌で、人々の根源にあるエネルギーを燃え立たせるという、いかにも古代を彷彿させる儀式が突然盛り上がる理由が他に見つからないからにすぎぬが。

民を救うには、そのエネルギーを抑制せず、全開にして、社会的な大きなうねりを創るべしというのが密教的発想ではなかろうか。稲作地帯であれば、そのような力を活用した社会事業を生み出そうと思えばいくらでもあるから、僧は在家と共に実践者として先頭に立てということでもあろう。しかし、天竺の職業別細分化社会では簡単なことではない。
ともあれ、大乗僧になるにあたっての受戒儀式は大きく変わった筈である。本朝では、最澄がこだわったのは、そこらもおおきかろう。
おそらくは、浄土の佛が降臨し、自らと一体化する体験の場となったのである。古代のシャーマニズム的憑依儀式を踏襲していると言えなくもないが、意味合いが180度違う。すべてを棄てて、衆生のために菩薩行に身を投じるという誓願の場と化したからである。

ここだけ見れば、社会に受け入れられそうに見えるが、それは本朝的思考。
天竺社会は口唱ストーリーに酔う文化。仏教は、聴衆個別対応で、琴線に触れる前世の因縁ストーリーで衆生を教化してきたが、そこからの脱皮が必要になるからだ。マスに訴え、社会全体の大きなうねりをおこす必要に迫られたと言ってもよいだろう。ところが、社会に存在しているお話は、今迄避けて来たベーダ経典とその周辺の叙事詩しかなく、大衆エネルギーを爆発させたいならココしかありえない。婆羅門なら、即座に、人気が生まれた神を主神のアバター化させればよいだけだが、仏教がそんなことをすれば逆に呑み込まれかねまい。
極めて悩ましい問題を抱えることになろう。
しかし、理趣経で旗を振ってしまった以上、戻ることはできない。

小生は、シヴァ神のリンガ(男根)・女神群崇拝に火がついた遠因は、仏教教団内でのこの動きにあると思う。婆羅門が仕掛けたとは思えないし、自然発生的に高まるようなものでもないと考えるからだ。
  →印度教の見方
  →[曼荼羅を知る]ベーダ33神
  →[曼荼羅を知る]"非日本型"密教 砂曼荼羅
→【印度仏教消滅原因】 [2] [1]
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