→INDEX ■■■ 今昔物語集の由来 [2020.8.30] ■■■ [附 26] 印度仏教消滅原因[4] 背景的に語れば、釈迦伝的なタイトルの本を探すと、様々な読者層に合わせた書籍がひっかかってきて、主要言語でみればすぐに100冊を超えるだろう。なんだ、それしかないのか。 小生、ジャワ島中部のボロブドール遺跡観光に行ったことがあるが、その印象がいつまでも残っているせいもある。 ストゥーパへと上る通り道の壁面には、釈尊誕生譚から涅槃譚まで、仏伝レリーフが連続的に並んでおり、これが信仰の核であることが歴然としていたからだ。 「ジャータカJātaka/佛説本生經」は、全547話のパーリ語南伝仏教"聖典"とされているが、まさにその世界。[→ジャータカを知る:1] 【序】[I]遠い因縁話 [II]遠くない因縁話 [III]近い因縁話 [→ジャータカを知る:一覧] それを拝見しながら坂道を上り切ると、沢山のストゥーパが並ぶ。籠状であり、座像の佛が安置されている。残念ながら夫々の尊名はわからなかったが、曼荼羅構造で配置されているのだろう。 もちろん、行く前から、こんなことは知識としてはあったものの、実物に接する時のインパクトは小さなものではない。見渡す限りなにもなさそうな場所にある巨大遺跡でもあるからだ。 塀で囲われた領域に門から入場するとなにもない広場があり、その向こうに五重塔とご本尊を安置する金堂が建っていて、鐘楼が離れた場所にあり、参拝を済ますとそれ以上なにもないという、日本の寺院での参詣コンセプトとは余りに違うからである。 その時、日本では、生身の釈尊の生涯のストーリーに感じ入り信仰に入る訳ではないことに初めて気付いた。信仰の端緒は、おそらく宗祖への尊崇。それは個人崇拝に近く、釈迦牟尼尊者はあくまでも宗祖が語る姿としての存在であり、帰依すべきは生身ではなく、その教えが抽象化された特定の佛、あるいは経典ということ。 「今昔物語集」編纂者がそう考えていたかはわからないが、少なくとも、自分の考えで釈迦牟尼尊者の一生と、それを引き継いだ仏教教団の歴史を考えてみたいと思っていたのは確かだと思う。 それこそが社会の変遷を見ることになるというか、本朝の社会が見えて来る筈と考えてのことだろう。 「今昔物語集」の全譚にわたっての、ある意味呆れかえった書き方は、そんな方針を掲げているとも言えよう。・・・ わざわざ、"常識的書き方"に拘るのである。この話は、何時、何処でのことと。一方の常識では、この手の話で、そんなこと分かる訳がないゾとなる訳だが。 この相克をあからさまにするためか、お笑いにしたかったのか、は定かではないが、ご丁寧にも欠字の文章を必ず書き入れている。普通の読者感覚なら、書きかけでもなかろうに、どういうつもりだとなろう。 読み方によっては、経典の「如是我聞」にママ習った訳で、天竺の時間軸欠如感のなさを揶揄していると言えないでもない。 (天竺では、社会構造上史書の意味が薄いし、婆羅門という身分が知識層を意味するので、個人として時代を超越した本質を語ることに注力することになり、家系には興味が生まれず、時系列を追うことはしないのだろう。) 編年体の仏伝などもともと存在しえない世界と言えよう。 (ここらの文化的特質を考えると、釈迦牟尼尊者への尊崇から抽象的な釈迦仏へと信仰対象を振ると、釈迦は神話の世界に埋没してしまうことになる。早くから、ベーダ経典や周辺叙事詩の大系に組み込まれてしまったと言えなくもない。) そんな天竺の体質とはいえ、ジャータカだけでとどまる筈がなく、それなりの数の仏伝経典が成立している。 【説出世部 律】 「マハーヴァストゥ・アヴァダーナ」(漢訳未発見) 【経】 竺大力&康孟詳[譯]:「修行本起経」197年 支謙[譯]:「太子瑞應本起經」223+年 曇無讖[譯] 馬鳴:「佛所行讚("ブッダチャリタ":200+年)」414+年 …仏典のサンスクリット化の先駆 地婆訶羅[譯]:「方広大荘厳経("ラリタヴィスタラ")」683年 or 竺法護[譯]:「佛説普曜經」308年 釈宝雲[譯]:「佛本行經」424+年 求那跋陀羅[譯]:「過去現在因果經」444+年 闍那崛多[譯]:「佛本行集經」587+年 "史"の中華帝国だから、これらから、編年体仏伝を創りたかった筈だが、整理すればするほど矛盾だらけになってしまうから、諦めるのが普通だが、流石震旦。なんとか仏史らしきところまでこぎつけるのである。・・・ 【教史】 僧祐[445-518年][撰]:「釈迦譜」…"抄集衆経,述而不作。" 道宣[596-667年][撰]:「釈迦氏譜」665年 費長房[撰]:「歴代三宝記」597年…仏教渡来〜隋朝の経典分類の上で譯僧略伝記載 【本朝仏教解説書】 源為憲:「三宝絵詞」984年上巻[13譚 釈迦本生譚][237] 法会一瞥 長々と話をしてきたが、それは、上記に注目すべき点があるから。 法脈を継ぐ祖師として引かれることが多い馬鳴の経典のこと。 この僧は、仏教詩人とも呼ばれており、「佛所行讚」は洗練されたサンスクリット文体の叙事詩に仕上がっているそうだ。 つまり、婆羅門伝統の、ベーダ口誦感覚での評価がなされたことになる。 コレ、時代の転換点を示すと言っても過言ではなかろう。 語りかけるような大衆語を使っているジャータカから脱し、式典雅語で仏伝を華美に語ることにしたのである。 芸術活動を通じて仏教を広めて行くスタイルが本格的に始まったと言ってもよいだろう。ただ、婆羅門階層が駆使し磨き上げ続けて来た言語を使うことになったから、仏典とベーダ経典の差異が薄れてしまった点は否めまい。 もう一つ大きな変化は、釈尊時代の教団は、歌舞音楽の類は厳禁だったが、そこから脱する動きを始めてしまった点。 禁欲的生活を貫くことを求めて来た教団が、芸術活動については是認する方向に歩み始めたことを意味しよう。これは、ソグド〜震旦〜本朝といった社会では、好感されそうだが、天竺ではそうはいくまい。 上流階級はよいが、下層は職業的に分断化されており、芸術活動が教化につながる必然性を欠くからだ。"生々しい"土着神話や神話化された仏伝でなければ、受け入れられない可能性が高かろう。 仏伝の芸術化はこれと逆方向に梶を切ってしまったということでは。 しかし、そのことで、上流階層の仏教帰依は大いに進んだのは間違いないと思われる。 「今昔物語集」ではそんな変化を感じさせる、釈尊と五百羅漢の前生譚が収録されている。 【天竺部】巻五天竺 付仏前(釈迦本生譚) ●[巻五#12]五百皇子国王御行皆忽出家語📖五百羅漢 比丘の琴の音色に感銘を受け、"有漏諸法如幻化。三界受楽如空雲。"ということで出家してしまったというのである。 生身の釈迦牟尼尊者の伝記で信仰が生まれるのではなく、釈尊のおっしゃった詞から生まれた教義と思想を学び、ある時、心に響くモノを感じ、初めて信仰に目覚めるということを示していよう。イエスやムハンマドの生涯を知ることで信仰に入っていく宗教とはかなり異なることがわかる。 天竺社会では、職業で分断されており、識字率云々どころではないクラスの人々だらけだった訳で、このような流れで信仰がその層まで広がるとは思えない。 →【印度仏教消滅原因】 [3] [2] [1] (C) 2020 RandDManagement.com →HOME |