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■■■ 今昔物語集の由来 [2019.10.5] ■■■
[97] 疫病神の伴善男
巷で疫病が大流行すれば、それは政争憤死者の怨霊の仕業というのが平安朝期の観念だと思うが、「今昔物語集」はこの点に関しては実に冷淡である。

しかしながら、一応と言うべきか、行疫流行神は登場している。

政争憤死者だが、朝廷が重視したとは思えない怨霊。しかも、その怨念のほどは定かでない話に仕上がっており、ナンダコリャの類。
応天門炎上事件の首謀者として伊豆に流罪になった
《伴善男[811-868年]
  【本朝世俗部】巻二十七本朝 付霊鬼(変化/怪異譚)
  [巻二十七#11]或膳部見善雄伴大納言霊語
 天下は咳病真っ盛り。
 罹病しない人なく、
  上中下にかかわらず、病臥状態。
 そんな時、
  膳部人、家内仕事を完了したので
  皆が寝静まった亥の時頃、帰宅しようと、
  門を出た。
 すると、そこに
  赤い上着と冠姿の、たいそう気高く怖ろしげなお方。
  誰だかわからなかったが明らかに下賎ではなさそう。
 ということで、跪いたのである。
 すると男は、
 「私を知っているか?」と尋ねる。
 「存じ上げません。」と答えと、
 話始めた。
「我れは、この国におった大納言である。
  名は伴の善雄。
  伊豆に配流され、早くに死んでしまった。
  それ故、行疫流行神と成ったのだ。
  心ならずも、公の犯罪者となり、重罪を蒙った。
  しかし、公務で仕えている間は、多くの恩恵を頂戴した。
  そこでだ。
   天下に疾疫が流行し、
   国中の人が皆死ぬことになる筈だったが
   我が、咳病程度に抑えたのである。
  我は、この事を言い聞かせようと
   ここに立ったのである。
  汝は恐れる必要なし。」
 と言って消えていったのである。
 この後、
 人々にこの話が伝わり
 「伴大納言は行疫流行神」であることが知られるようになった。


ほほ〜、そういう話があるのか、となるが、「今昔物語集」編纂者もそう思ったらしい。世の中、いろいろな人がいるのに、どうして料理方の膳部人に伝えねばならぬか理解に苦しむと記載している。
同感。

そんなことより、どうしてこんなマイナーな怨霊をとりあげるのか「今昔物語集」編纂者に聞きたくなる。

普通、御霊信仰と言えば以下の6柱。
 【御霊会】863年@神泉苑
  ▼崇道天皇
/早良親王…光仁天皇皇子
  ▽伊予親王
  ▼藤原大夫人
/藤原逸勢子…伊予親王母
  ▼橘大夫
/橘逸勢
  ▼文大夫
/文屋宮田麻呂
  ▽観察使
/藤原仲成 or 藤原広嗣
それを社で常時祀ることになると8座に。
 【上/下御霊神社】
  ▼崇道天皇
  △他戸
/他部親王…光仁天皇皇子
  △井上皇后
…光仁天皇皇后 聖武天皇皇女
  ▼藤原大夫人
  ▼文屋宮田麿
  ▼橘逸勢
  △火雷神
…菅原道真(神社説:六座の神霊荒魂)
  △吉備大臣
/真備…(神社説:神霊荒魂)

どういうことなのか、御霊会の話はサッパリである。
ゼロではないが、滑稽譚での一言のみではなかろうか。
  「今日、此の郷の御霊会にや有らむ。」
  【本朝世俗部】巻二十八本朝 付世俗(滑稽譚)
  [巻二十八#_7]近江国矢馳郡司堂供養田楽語
  [→嗚呼絵師]
これでもわかるように、御霊会は大流行中だったというのに。

神道的なのでお嫌いということでもないだろうす。
南都の寺譚とは違って、平安京期の寺譚では神仏習合が当たり前となっていることを示した訳だし。
もっとも、これらの怨霊に全く触れずということではなさそう。すでに取り上げた譚で、漢詩の読み方を教えてくれたとして、登場している、と言えるかは定かではないが。
(北野)天神》
  【本朝世俗部】巻二十四本朝 付世俗(芸能譚 術譚)
  [巻二十四#28]天神御製詩読示人夢給語
  [→漢詩集]

上記の他にどのようなメジャーな怨霊が畏れられていたのかは、わかっていない。巷で云々される説としては《聖徳太子》が有名ではあるものの、事跡など聞いたことがないから、検討対象外。他の説としては《蘇我宗家》と《長屋王》があるそうだ。
こちらについては多少触れられている。と言うか、これが説の中核だったりして。
マ、それほど強い話ではない。斬られた首が天皇のもとに飛んで行って喋るから、怨霊的描き方というだけ。
《蘇我宗家》
巻二十二本朝(藤原氏列伝)
  [巻二十二#1]大織冠始賜藤原姓語
  [→藤原氏列伝]
 大刀を以て入鹿が頸を打落し・・・
 其の頸、飛て 高御蔵の許に参りて申さく、
  「我れ罪無し。何事にて殺さるるぞ」・・・

どう対応しそうかは想像がつく。
 恐させ給て、
 高御蔵の戸を閇させ給ひつれば、
 頸、其の戸にぞ当て落にける。


《長屋王》
奈良二条大路南で約3万平米の長屋王邸跡が発見されたのは20世紀終わり頃。鮑を食べるような食生活だったそうな。
  【本朝世俗部】巻二十本朝 付仏法(天狗・狐・蛇 冥界の往還 因果応報)
  [巻二十#27]長屋親王罸沙弥感現報語
 聖武天皇が天正元年に元興寺で法会。
 太政大臣長屋親王は官僧達を供養。
 一方、その飯を乞う私僧は殴り追い払った。
 これを見た人々は
  どんでもない行為を思ったり
  妬んだりと。
 讒言も生まれる。
 「親王は国を奪おうとしており、
  天皇が善行を進めているからゆえの悪行。」
 天皇激怒。
 屋敷を攻めたので
  長屋王は、毒を飲んで自害。


729年の出来事である。
一般には、純皇族 v.s. 不比等息子4人の権力闘争に端を発した、藤原氏の陰謀(左道を学んでいるとの密告)とされている。攻めたのは藤原宇合の六衛府の軍勢。査問者は舎人親王。妃と子は縊り殺され、王は服毒自殺を迫られた。
政争憤死の典型。
よく知られているように、四兄弟は妹の光明子を皇后に立てた政権を樹立したが、737年に全員死亡。天然痘が原因とされている。密告者も斬殺される。

さて、怨霊譚は、自殺後のお話になる訳だ。
 罰を与えたことで
 天皇は人を派遣し
  屍骸を城に棄てさせ焼却。
  河に流し海に投じたのである。
 そうしたところ、
  この骨が土佐に流れ着いた。
 その地の百姓が多数死んだのである。
  百姓は"長屋の悪心の気"に依るもの、と。

大祓が行われた年月は記録であたれるそうで、長屋王の場合は直後に行われたようだ。
この手の怨念の祟りによる疫病発生の観念は相当に古い。(「古事記」では、意富多多泥古命が三輪山で祭祀を行って治まったとの記載がある訳で。)
ここらは、統治構造にも関わる問題でもあるからだ。そこらを、「今昔物語集」編纂者はわかっていたということか。

民間でも怨念封じの祈祷祭祀が広く行われていたことを、それとなく、滑稽譚のなかで語っているが、神権政治国家なら、「古事記」型の中央での呪術型祭祀は極めて重要であり、"民間"的な祭祀は権力構造上無くしたい筈である。しかし、どちらにしても、転生を旨とする仏教とはソリがよくないのは自明。
仏教を国教とする国家像を思い描いていたであろう「今昔物語集」編纂者と仏教サロンの仲間達にとって、この辺りの議論は相当に重いものがあったろう。

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