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■■■ 今昔物語集の由来 [2019.10.23] ■■■
[115] 念仏信仰先駆者
千観[918-984年]が浄土教から浄土宗へ発展して行く流れのなかで、重要な役割を果たしている、と記載したが[→]、ことほど左様に、「今昔物語集」は本朝仏教史をどう見るべきかわかるように、的確な話を散りばめている。

ともすれば、教団の角逐と盛衰に、教祖〜中興の祖の事績からなる歴史から眺めてしまうが、その発想から脱却しようとの強いメッセージ性がある書物である。換言すれば、信仰とはあくまでも個人ベースの自由なもの、という強いイデオロギー色で彩られているということになろう。

だからこそ、およそ仏教とは無縁な話だらけの上、その記載に矢鱈力が入る訳だし、本朝の仏教譚も法華経・観音・地蔵菩薩を沢山並べるのだと思う。一般読者からすれば、似たような話が延々続くから、成程、仏教説話集とはこういうものかという強烈な印象を持つだけで終わってしまうのは無理もないが、そこにはグサリと刺さる仕掛けが隠されている。表だって言えないももの、編纂者の仏教サロンでは、談笑しながら議論されてsいた問題が提起されているのである。
ココらが編纂者の知恵の見せ所でもある。
わかり易いのが、念仏「阿弥陀仏よや、おい、おい。」 [→往生絵巻]インテリ仏教徒への"ガツンと一撃"を意図した話だろう。

その念仏信仰だが、どう考えても、その先駆者としか思えない僧が記載されている。本朝仏教史に欠かせないと見て収載したと思われる。
  【本朝仏法部】巻十五本朝 付仏法(僧侶俗人の往生譚)
  [巻十五#26]播磨国賀古駅教信往生語
 摂津 島の下にある勝尾寺@箕面の勝如聖人は道心深い僧。
 別に草庵を造って籠り、10年余り、六道衆生の為に無言行。
 弟子や童子も希な位だから、他の人が見かけることもなかった。
 ある夜半のこと。
 誰かが訪ねて来て柴の戸を叩いた。
 しかし、無言行の最中で返事ができないので咳払いで知らせた。
 すると、こう言う。
 「我は、播磨賀古の駅北の辺りに住む沙弥で教信と申す。
  年来、阿弥陀念仏を唱え、"極楽往生"を祈願して来た。
  今日、ついにそれを果たした。
  聖人も某年某月某日にお迎えとなろう。
  と、言うことで、
  この事を告げ申そうと思い来たのである。」
 それだけで去っていった。

教信[786-866年]は現地では有名な念仏信仰者でも、離れると知られていなかったように見受けられる。
 これに驚いた勝如は、翌朝、無言行を止めて
 弟子の勝鑒を呼び、当該地の教信を尋ねよ、と。
 勝鑒が行って見ると、
 駅の北に小さな庵があり、その前に死人一体。
 狗・鳥が集まりそれを争って食っていた。

遺骸を喰わせる姿勢の典型例。小生は、この手の話を犬/狗譚としていないことはすでに述べた。[→落盤事故生還]

 庵の内には泣き悲しむ老婆と童子の二人。
 そこで尋ねると、
 「この死人は、年来の夫の沙弥 教信。
  一生の間、昼夜寤寐にかかわらず、阿弥陀念仏を唱え、
  そんなことで、近隣の人は"阿弥陀丸"と呼んでいました。
  それが、昨夜亡くなってしまいました。
  年来の夫に別れて泣き悲しんでいるのです。
  ここに侍る童子は教信の子です。」と。

"阿弥陀丸"とは、尊師名にはあり得ない。人々から愛されていたことがわかる。
ともとは興福寺の学僧らしいが、それを捨て諸国遊行後、賀古駅北の草庵生活に入るものの極貧状態。里人に雇われて暮らしたとも。俗界に接触すれば神通力を失う仙人的な遁世行動を目指したのではない。しかも妻帯しており、そこだけとれば俗世間的。非僧非俗であり、後世の専修念仏指導者の先駆者である。
近隣住民はもとより駅に寄る人々にも念仏を勧める説法を熱心に行っていたことが伺える。
この入滅地には、念仏山教信寺@加古川野口があり、鎌倉期建造の五輪塔が廟墓とされている。

 これを聞いた勝鑒は、返って、勝如聖人に委細を伝えた。
 聖人は涙を流し悲しみ貴び、
 教信庵に出向き泣きながら念仏を唱え戻ってきたのである。
 それ以後、ますます心を決め念仏に励んだ。
 そして、教信の告知日に勝如逝去。

勝如聖人は無言行を止め、念仏一筋に、ということでもある。
教信の入滅は貞観8年8月15日。告知日とは、その1年後という話が多いようだ。「今昔物語集」編纂者は、そこに関心を引きたくはない点にも注意を払うべきだろう。
重要なのは、自身が死んだ後にどうなったかを、誰かに夢で知らせること。念仏三昧で極楽往生したとの報告が肝心な点。それが源信等の二五三昧会に引き継がれているのは間違いあるまい。

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