→INDEX

■■■ 今昔物語集の由来 [2020.3.11] ■■■
[255] 六波羅蜜寺地蔵菩薩立像
六波羅蜜寺は、元地蔵堂本尊だった木造彩色玉眼の地蔵菩薩立像[151,8cm]を所蔵している。
俗称"鬘掛地蔵"だが、剃髪姿とは無関係で、頭髪を手にしているから。女性からの供養説話に由来するらしい。
もともと、この辺りは髑髏原と呼ばれていたと思われ、それを六波羅と呼び換えたようにも思えるから、遺骸から頭髪を頂戴させて頂くような場所ならではの持物といえよう。
(開基 空也は東山西光寺としており、空也は法継を残さなかったので、死後の中興僧、比叡山の中信が六波羅密蜜寺に改称。)

この仏像は定朝作の可能性が高いとされているが、その根拠は「今昔物語集」の記載。
  【本朝仏法部】巻十七本朝 付仏法(地蔵菩薩霊験譚+諸菩薩/諸天霊験譚)
  [巻十七#21]但馬前司□□国挙依地蔵助得活語

小生は後背はその可能性があろうが、仏像は入れ替えられていると見る。後背だけ新調する必要性が考えつかないからである。

それに、もう一つ陸奥からやってきた、"山送りの地蔵"話もあるし、なんとも言い難しだ。[→「地蔵菩薩霊験記」]
  [巻十七#_5]依夢告従泥中掘出地蔵語

六波羅蜜寺は場所柄、地蔵講のメッカだから、受領達からの仏像寄進は少なくなかった筈だし。[→地蔵講]
  [巻十七#28]京住女人依地蔵助得活語

さて、その定朝に造像を発注した受領は光孝源氏に属する貴族である。
光孝天皇第十四皇子源国紀次男
○公忠
[889-948年]…三十六歌仙

○信明
[910-970年]…三十六歌仙
├○通理
│├─○国基
│├─○
国挙/能忍[n.a.-1023年]─○国輔/行円, 国経[977年-n.a.], 季範, 公国
│└─○国政
├○国定
└○国盛
[n.a.-996年]…道長の腹心[→紫式部の父弟]


 但馬前司、源国挙は公私ともども多忙。
 とかくするうち罹病。突発的に死んでしまった。
 閻魔庁に到着。そこは罪人だらけ。
 一巻の文を持ち走り廻る小僧がいて、
 あれは地蔵菩薩と側の人が言うので
 「我を助け給え。」と懇願
 すると、小僧は
 「人間の世の栄華は、かりそめの夢幻。
  人の罪業は万劫たる岩山の如し。
  まして、汝は女色に耽溺し、罪状多く
  だからこそ、ここへ来たのだ。
  しかも、汝は我を敬ったこともない。
  それで、どうしてお前を助けられよう。」
 と言うので、国挙は
 「それでも、どうか御慈悲でお助け下さい。
  もし、もとの国へ帰ることができましたなら、
  全財産を棄て、三宝と地蔵菩薩に帰依致しますので。」
 と申し上げた。
 小僧は、それが本当なら計らってよろうということで、
 冥官の所へ行き、放免してもらった、
 ・・・と思っていたら、半日経ち蘇生。
 その後、国挙はこの事を人には語らなかった。
 そして、剃髪し出家入道。
 さらに大仏師 定朝にたのんで
 等身大皆金色の地蔵菩薩像をお造り申し上げた。
 さらに、色紙に法華経一部を書写し、
 六波羅蜜寺にて大法会を開催し供養奉ったのである。
 法会の講師は浄源供奉で、
 列席者は道俗男女で、涙ながらに霊験を信じ奉ったのである。
 その地蔵菩薩像は六波羅蜜寺に安置された。


源国挙のこの話は、特殊例ではなく、典型例を収載したと考えるべきだと思う。
この時代受領階層は、徹底的収奪に勤しみ、膨大な財を貯めて富裕を誇っていた筈。彼等にとっては、造仏や檀那役は当たり前の行為だったろう。
そもそも、受領には専任の層がお供する訳で、守のための行為以外は何もしないのが普通。そして、老齢化や罹病で社会的活動が不自由になれば、たいていは出家の道を選ぶことになる。
要するに、罹病し、一時危篤状況になったが、たまたま回復したが、健康体ではないから出家したということ。従って、ほぼ実話だろう。

 (C) 2020 RandDManagement.com    →HOME