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■■■ 今昔物語集の由来 [2019.10.25] ■■■
[117] 「地蔵菩薩霊験記」
【本朝仏法部】巻十七 本朝 付仏法(地蔵菩薩霊験譚+諸菩薩/諸天霊験譚)は50譚が収載されているが、そのうち1〜32譚が地蔵菩薩霊験譚。
このうち2譚(#19, 28)を除くと、散逸してしまった三井寺(園城寺)僧実睿[撰]:「地蔵菩薩霊験記」1057年とほぼ同じ。(出処は三巻本と後世に良観が編纂した十四巻巻本で半々。他に二巻本もあるようだ。)
(参照) 清水邦彦:「実睿編『地蔵菩薩霊験記』再考−高達説をどう止揚するか−」日本仏教綜合研究 2, 2004年
尚、実睿は、常謹[撰]:「地蔵菩薩応験記」の本朝版を目指したと見られている。

寺の縁起や信仰ご利益の内容に、観音菩薩霊験との実質的な違いは特になさそうだが、菩薩が端正な小僧の形で現れたり、地獄から救われる話が多いので、全く異なる印象を与える。それと、民間での伝承譚の風情が濃厚な点もあげてよいかも。

このことは、観音菩薩信仰が広がり、貴族は競って供養に励み、さらに極楽往生のために法会を頻繁に行ったものの、そのような行為ができない下層の人々が取り残されてしまったことを意味しているのだろう。その救済の菩薩が求められたということ。

ここでの登場人物も僧/仙聖/神主を除くと、牛飼、下層武士、下人、女性といった風。
端正な童姿で、貴族的な飾り物を一切付けずという点がその対応を物語る。菩薩の姿としては極端に違いすぎるからだ。
古代は死産や乳幼児死亡は多かったろうから、子供の姿となって死霊を成仏させる役割への期待は相当なものだったろうが、「今昔物語集」は、この辺りには触れていない。
それと、寺の童に上流階級の子息が激増した点も、端正な姿として出現することと無関係ではあるまい。「枕草子」二六〇段 994年法興院積善寺での一切経供養で、"僧都の君(隆円15歳)は、・・・頭の格好が青くかわいらしく、地蔵菩薩のような姿で、"とある訳で。
さらに、文字的には、虚空に対応する地の"蔵"菩薩だから、本来は対になるべき菩薩だと思うが、そのような見方を示唆する話もない。

ところで、この実睿が登場する譚がある。
全国的に、地蔵菩薩像が多数作られるようになった緒ではないか。
  [巻十七#12]改綵色地蔵人得夢告語
 三井寺の僧 実叡供奉は、
 寺の塔内に、御手および蓮華座のない地蔵菩薩像を見つけた。
 補修し綵色後、正法寺@大津石山内畑に安置した。
 ある夜、実叡の
夢に14〜15才の形端正な小僧が現れた、
 そして、私は汝が補修してくれた地蔵である、と。
 三井寺の上座僧の妻である尼が造った像とも。
 この小僧の後ろの方に、一人の人物が見えていた。
 小僧は説明。
 「これは、昔、私を造った仏師。
  その功徳で、このように、常に庇護している。」
 実叡がさらにじっくり眺めると、
 そこには20余りの地蔵像が南向きで並んで座していた。
 実叡は縁起に涙する。

造像を生業とするのは罪深いと考えていた人々を前向きした効果は計り知れなかろう。ただ、夢の中での数は20と意外に控え目。元ネタがどうなっているかわからないが、膨大な数でもおかしくなかろう。突然、山道の傍らが開け、数え切れぬほどの水子供養のお地蔵様が並ぶ風景に驚かされている現代人感覚かも知れぬが。
この話、すでに取り上げた#19譚とも関係している。
三井寺の僧 浄照が子供の頃、地蔵菩薩供養ゴッコ遊びをしていて、木彫地蔵菩薩作ったことで冥界から救われる譚と根は同じ。
今でも京都に残る地蔵盆の基底に流れる人々の精神性を示しているとも言えよう。

地蔵信仰が全国に広がったことを示すための巻でもあろう・・・
[_1]【西京】願値遇地蔵菩薩変化語 [→地蔵講]
[_2]【武蔵】紀用方仕地蔵菩薩蒙利益語 [→地蔵講]
[_3]【近江 依智の旧寺】地蔵菩薩変小僧形受箭語
[_4]【備中】依念地蔵菩薩遁主殺難語 [→地蔵講]
[_5]【陸奥⇒六波羅蜜寺】依夢告従泥中掘出地蔵語
[_6]【土佐 室戸の寺】地蔵菩薩値火難自出堂語
[_7]【近江⇒播磨 清水寺】依地蔵菩薩教始播磨国清水寺語
[_8]【陸奥 小松寺】沙弥蔵念世称地蔵変化語 [→地蔵講]
[_9]【比叡 横川】 僧浄源祈地蔵衣与老母語
[10]【京 祇陀林寺】 僧仁康祈念地蔵遁疫癘難語 [→地蔵講]
[11]【駿河 富士の宮/浅間社】 駿河国富士神主帰依地蔵語
[12]【三井寺⇒近江正法寺】改綵色地蔵人得夢告語
[13]【伊勢飯高】伊勢国人依地蔵助存命語 [→落盤事故生還]
[14]【肥前背振山】依地蔵示従鎮西移愛宕護僧語 [→地蔵講]
[15]【愛宕護⇒伯耆の大山】依地蔵示従愛宕護移伯耆大山僧語
[16]【伊豆大島 地蔵寺】伊豆国大島郡建地蔵寺語
[17]【東大寺】東大寺蔵満依地蔵助得活語 [→閻魔王]
[18]【備中】備中国僧阿清衣地蔵助得活語 [→閻魔王]
[19]【三井寺】三井寺浄照依地蔵助得活語 [→閻魔王]
[20]【播磨】播磨国公真依地蔵助得活語
[21]【但馬】但馬前司□□国挙依地蔵助得活語
[22]【_】賀茂盛孝依地蔵助得活語
[23]【周防】依地蔵助活人造六地蔵語 [→六地蔵]
[24]【_】聊敬地蔵菩薩得活人語
[25]【因幡】養造地蔵仏師得活人語
[26]【_】買龜放男依地蔵助得活語 [→亀譚]
[27]【立山】堕越中立山地獄女蒙地蔵助語 [→立山地獄]
[28]【京】京住女人依地蔵助得活語 [→地蔵講]
[29]【陸奥】陸奥国女人依地蔵助得活語
[30]【下野】下野国僧依地蔵助知死期語
[31]【吉野】説経僧祥蓮依地蔵助免苦語
[32]【上総】上総守時重書写法花蒙地蔵助語 [→和歌集]
このうち、冥府から蘇生するのは#17〜29。#27の立山地獄はあたらないが。
と言うことで、蘇生譚ではない、#3, 5, 6, 7, 9, 11, 15, 16を眺めておこう。


 近江依智
(愛知)賀野(蚊野)の旧寺のご本尊は地蔵。
 左衛門の尉 平諸道の先祖の検非違使が建立。
 戦場で平諸道の父は箭を射尽くし窮地に。
 氏寺に加護を祈ったところ、
  
小僧が出現し、箭を拾い集めてくれ勝利。
  拾っている小僧に箭が当たり、何処かに。
 東西を尋ねたが、小僧の正体は知れず。
 氏寺に行くと像の背に箭が一筋射立てられていた。



 陸奥の司 平孝義は郎党 藤二に検田に向かわせる。
 すると、泥田中に一尺の地蔵像を発見。
 ところが、掘り出そうとしても、動かない。
 その理由を知るため、夢で教えてくれるように祈願。
 夢に
小僧が出現し、そこは廃寺跡と教えてくれる。
 仲間の仏像五十余体が発掘されぬと地蔵は動けない、と。
 藤二は人手を集めすべて掘り出した。地蔵も。
 事の次第を村人に語り、像は祀られることに。
 地蔵菩薩像だけは京へと護持。
 補修された後、六波羅蜜の寿久上人の僧坊に安置された。

六波羅蜜寺には、空也上人立像(康勝作)、十一面観音立像(空也上人作)、地蔵菩薩坐像(運慶作)、"山送りの地蔵"/地蔵菩薩立像/鬘掛地蔵(定朝作)がある。


 土佐 室戸の寺は地蔵菩薩と毘沙門天を祀っていた。
 ある日、寺が火事に。
 一人の
小僧が村を走り回って、危急を告げた。
 村人が駆けつけると、寺の周囲の草木が焼けただけ。
 寺は庇が焦げただけ。
 二体の仏像はお堂の外に立っていた。
  「地蔵は蓮華座に不立給ず、
   毘沙門は鬼形を不踏給ず。」と言うことで、
 火を消したのは毘沙門天で
 村人に触れて回ったのは地蔵と。

807年空海が創建した津照寺@室戸室津の伝承譚。


 近江の僧 蔵明は慈悲忍辱。
 施の心はあるが赤貧でどうにもならない。
 ただただ地蔵菩薩に帰依するのみ。
 ある夜、夢に人が現れて「播磨の国に行って住め。」。
 お告げに従い、山中の庵に住むが、来訪者現れず。
 独りで修行を続けていると、夢に端正な
小僧出現。
 宝珠を渡され、常に熱心に念じているからこれで施すように、と。
 そこで、さらに心に念じていると、人が来るように。
 従者も増え、お堂が建ち、等身の地蔵菩薩像を安置した。
 これが清水寺。
 やがて評判を呼び、帰依する衆生も財も増えて、
 施しの心を存分に発揮できるようになった。

播磨の清水寺はどのお寺を指すのだろうか。播磨清水寺の開基は天竺渡来の伝法道仙人で古刹だし。


 比叡 横川の僧 浄源は顕密を修め道心堅固。
 ある時、未曾有の飢饉が発生し餓死者続出。
 浄源は京の町に居る老母と妹が貧なので心配になった。
 そこで、地蔵菩薩に本願をかけ、地蔵普現法行使。
 その一七満願の夜、老母は夢をみた。
 形端正なる
小僧が絹三匹を持って現れる。
 「これは上等な品。米に替え御要に当てるように。」と告げられた。
 朝、老母の枕元にその品があり、さっそく、老母は売らせる。
 米三十石を得る。
 老母は比叡の浄源に使いを出して知らせる。
 地蔵菩薩の貴さを崇めたのであった。

浄源が考える「貧」のレベルがわかるようになっている。まだ取り上げていないが源信と同じで、浄源も母子の紐帯は切れないのである。そのような悩みからの脱却ではなく、肯定しており、その情の発露を賞賛していると見てよさそう。「今昔物語集」編纂者はここらについて特別なコメントをつけていない。


 富士の宮/浅間社の神主 光時は地蔵菩薩に帰依していた。
 いかし、道で僧に出会っても、格式上、下馬の礼はしなかった。
 ある日の事、
 外出途中で、17〜18才ほどの僧に出会った。
 そこで、騎乗のママ、その僧に声をかけたところ
 すぐに僧は消え失せたのである。
 光時、恐れ怪しむ。
 夜になり、夢に形端正な
小僧が現れた。
 地蔵菩薩であると言い、
 「汝は我を頼んでおきみながら
  僧に礼を尽くしていない。
  僧は諸仏の福田であり、
  以後気をつけよ」と諭されたのである。
 咎を悔いて、以後、僧を見かけると
 遠方から下馬して礼拝した。

地蔵は土着の菩薩とされていたのだろうか。


 愛宕護の僧 蔵算は貧困状態が続いた。
 家が貧しいし、徳行を欠き、験力も期待できず、
 衣食のお布施がなかったからと見られていた。
 そんなことも気にせず、地蔵菩薩に帰依一途の生活。
 60才になり病に罹り、死期が近づいて来た。
 そんなある夜のこと、
 夢に形端厳な
小僧が現れ、お告げ。
 「伯耆大山の権現は地蔵菩薩の垂迹。
  大山に詣で、
  現世、後世の、望みを祈願するとよい。」
 それに従い、大山で6年間懇ろにお勤め。
 愛宕護に帰ったところ
 仏徳を顕し、多くの人を帰依させることに。
 貧困から一転。
 地蔵菩薩のお蔭と喜んだのである。

山岳信仰に基づくご神体の大山が地蔵菩薩の垂迹。修験道の聖地であり、767年に大智明大権現とされた。もともと死者の魂が還る地とされていたから、地蔵菩薩との習合は自然な流れと思われる。

小僧が出現せずの例外的な話がある。

 嵯峨天皇期。
 僧 蔵海が伊豆大島に地蔵寺を建立。
 等身の地蔵菩薩像を安置。
 絶えず地蔵の名号を唱え、
 地蔵像を背負って身体から離さなかった。
 100才で大往生。
 人々は地蔵の化身だとして貴んだ。

宗祖や聖人とされていないのに、現実社会のなかで生きている僧を地蔵菩薩の化身とすることは滅多になかろう。御蔵島ならわからないでもないが、離島の風土と言うことか。
地蔵寺は各地にあるが、伊豆大島が注目されたことはなさそう。配流された役小角が勤行した場所に意味があるとも思えないが。

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