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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.9.13] ■■■
[441] 冥途縁@震旦
冥途報@震旦[→]をとりあげたので、続けて、冥途縁@震旦も見ておこう。
  【震旦部】巻九震旦 付孝養(孝子譚 冥途譚)📖震旦孝養
  <1-12, 20, 43-46「孝子伝」邦訳>
  <13-19, 21-42「冥報記」邦訳>
  《13-16冥途縁(死後)》

順に眺めると、なんとなくでしかないものの、構成方針が伝わって来る気がしてくる。

  [巻九#13] □□人以父銭買取龜放河語📖亀譚
  ⇒「冥報記」上11 (陳)嚴恭
翻案的お話。すでに取り上げて書いたが、収載意図がはなはだわかりにくい。以下のように、孝養と書いてはいるものの。
【ご教訓】祖も此の事を聞て、此の子を喜事限無し。此れ、亀の命を生たるのみに非ず、極たる孝養也。

  [巻九#14] 震旦江都孫宝於冥途済母活語
  ⇒「冥報記」中16 (隋)孫寶
こちらは冥途救母譚。以下のように孝養の類とされる訳だ。
【ご教訓】孫宝、冥官に訴へて、母が苦を抜きたる、限り無き孝養に非ざらむや。
・・・これはあくまでも震旦の話であることに注意する必要がありそう。
どうしても亡き母への恩という点に目がいき、本朝の目線で読みがちで、単純に、"普通の人より"その思いが深い息子の話と考えてしまう。
その見方は間違いではないものの、おそらくは、「今昔物語集」編纂者の意図とは逆。

母の慈愛を恩義に感じて子供が精一杯孝行するとの姿勢は当然視しがちで、普遍的なものと考えがちだが、インテリを自負していれば、そこにメスを入れたくなる筈。この手の譚は、そこまで読まないと価値が無い。

つまり、儒教国家では母への孝行は出来る限り褒めたくない筈、という点に気付かせるために収録したと見るのである。

「酉陽雑俎」を読むとわかるが、奴婢や妾も居るような大家族での同居生活が基本とされる社会。そこに儒教の宗族信仰が持ち込まれているから、廟の祭祀者が実質的家長となる。恩義の対象はココに集中させるのが、儒教の大原則。
そこに実母への恩が入ってくると、話としては孝行なので結構なこととはなるものの、実際に発揮してもらってはこまることになる。排他的な実母の偏愛に子が応える動きは、宗族構造を一気に壊しかねないからだ。
恩を大事にする仏教は、本朝では社会との親和性を保てるが、震旦では排斥されることが多いのはここらも大きな要因と見てよいだろう。"恩"で宗族第一主義を壊されかねないとの危惧の念が生まれない筈がなかろう。
この辺りを思い巡らせておかないと、残りのお話が煤けてしまいかねない。

  [巻九#15] 河南元大宝死報告張叡冊夢語
  ⇒「冥報記」中26 (唐)元大寶
 元大宝は河南の人で、貞観代[627-649]、大理の丞として赴任。
 心中では因果を信じていなかった。
 同僚の張叡冊とは親友で、友としての契りを結んでいた。
 そんなことで、大宝は、常に、叡冊に契りを語っていた。
 「我等二人のうち、もしもどちらかが先に死んだら
  将来の果報の善悪を必ず知らせることにしよう。」と。
  そうこうするうち、
 大宝は、637年、車で洛陽に行く途中で罹病し死亡。
 叡冊は、帝都に居たので死んだことを知らなかった。
 ところが、ある夜、叡冊は夢をみた。
  大宝がやって来て語る。
  大宝:「我は、既に死んでおる。
   生きていた時、善悪の報が有るとは信じていなかった。
   今、死んでから、定めて善悪の報が有ると、知った。
   そこで、ここに来て、君に知らせる。
   君。専心して福業を修るように。」
  そこで、叡冊はその委細を尋ねた。
  大宝:「冥途の果報については、極て厳格なので、
    詳細に述べることはできない。
    只、君には、"定めて報が有る。"とお知らせできる程度。」
 というところで、夢から覚めた。
 その後、叡冊は同僚に夢の事を語ったが、
 本当のことか分からないので、
 次の日、大宝の安否を尋ねると、既に死んでいることが分かった。
 そこで、言われた通りにするよう家に命じた。
 さらに、
 「存命中は、契り深き仲だったが
  死んでからも、それを忘れずに、死後の報を示してくれた。
  その志、哀れなり。」と言い、
 大宝を恋しく思うと共に、悲哀感に浸った。

生前の契りを守って、夢で、親友に善悪応報ありと告げた。死んでも信義を忘れなかったのである。
中華帝国は官僚制社会であり、賄賂・権謀術数に長けていないと生き抜いていくのは難しい。それこそが人生と考えて生活するしかない。従って、精神生活上、親友は最も大切な存在となる。

  [巻九#16] 索冑死沈裕夢告可得官期語
  ⇒「冥報記」中21 (唐)戴天胄
題名が直截的。
索冑は死ぬと、沈裕の夢に現れ。官を得る時期を告げるという内容。官位は、本朝でも重大事だが、震旦では桁違い。
前譚同様に、親友に対する仁義を守ったということで、孝養の話ということか。
【ご教訓】生たる時、契り有り中善き人は、死て後も忘れず思ふ也けり。
 民部の尚書、武昌公戴の索冑と、
 
 (索冑=戴胄[573-633年]:唐太宗時宰相
    …"大唐故民部尚書贈尚書右仆射武昌郡公戴府君墓志之銘")

 舒州
@安徽潜山の別駕(刺史巡察の随行官)、沈裕は、
 互に深い契りを交わし仲が良い親友同士。
 年月が経ち、633年、索冑逝去。
 翌年8月、沈裕、舒州に居た時、夢を見た。
  帝都の義寧里の南の境を行くと、突然、索冑が現れたが、
  古くボロボロの衣を着て、大変に衰えた姿。
  沈裕を見て喜んだが、悲しみの表情。
  沈裕:「君、生きていた時、善根を修した。
     それなのに、死んでから、今、どうしてそうなったのだ。」
  索冑:「我、生きていた時、
     誤って、公に奏上。人を一人殺させてしまった。
     その上、死後、他の人が、羊一頭を殺して、我を祭ってしまった。
     この2つの咎により受苦。
     言い尽くせないほど。
     とは言え、今、その罪も終わろうとしている。」
  さらに、話続けた。
  索冑:「我、生きていた時、君とは仲がよかった。
     にもかかわらず、君は、未だに官位を得ていない。
     それが、我にとっては心残りだ。
     しかしながら、
     君についての五品の文書の件で、
     既に、天曹
(=天の神々)が会うことになっており
     慶と出るだろう。
     そんなことがあるので、伝えておきたい。」
 言い終わったところで、夢から覚めた。
 その後、沈裕は親き人に会い、この事を語って、
 夢の験があるように願った。
 ところが、その年の冬、沈裕は入京。
 猟官に参ったものの、禁錮の懲罸を受けてしまい、
 官職は得られず、夢の験は無かったと語った。
 そして、635年、沈裕は江南に帰って行った。
 舒州に到着すると、突然、詔書を受け賜わることに。
 五品を授かり、州の治中を得たのである。
 沈裕は、夢で索冑が告げた通りだったので、
 限りなく哀れに感じ入ったのである。


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