→INDEX ■■■ 今昔物語集の由来 [2020.9.26] ■■■ [454] 楊貴妃 白楽天の上陽白髮人にしても、女人を至る処から集めさせてただ幽閉しているだけの後宮制度は、およそ道に外れた仕組みだ、との批判精神が流れている筈だが、「今昔物語集」はそれを情緒の世界に流そうとしているように映る。 呉招孝と女御との詩の交換で愛が育まれるとの話など、およそ震旦的でない。本朝的な文化を持ち込んだ話に改変させることで、読者がその違和感にギョッとすることを狙ったのかも知れぬ。 楊貴妃の話も同じようなものなので見ていこう。 【震旦部】巻十震旦 付国史(奇異譚[史書・小説]) 📖「注好選」依存 📖「俊頼髄脳」好み 《1-8 王朝》 ---5, 6, 7:后妃女御譚--- ●[巻十#_6] 唐玄宗后上陽人空老語📖上陽白髮人 ⇒白居易:「新楽譜」#7上陽白髮人 ●[巻十#_7] 唐玄宗后楊貴妃依皇寵被殺語 ⇒「俊頼髄脳」后楊貴妃 ⇒「長恨歌伝」(白居易:「長恨歌」) ⇒「注好選」上101漢皇涕密契 ⇒「舊唐書」卷五十一后妃上6玄宗[1]廢后王氏[2]貞順皇后武氏[3]楊貴妃 /卷五十二后妃下1玄宗元獻皇后楊氏 ⇒「新唐書」卷七十六列傳1后妃上[11]玄宗王皇后[12]玄宗貞順武皇后[13]玄宗元獻楊皇后 [14]玄宗貴妃楊氏 ●[巻十#_8] 震旦呉招孝見流詩恋其主語📖柿葉詩 ⇒「俊頼髄脳」呉招孝 愛人の死は確かに震旦の国史といえばそうなのである。 「李夫人」 白居易 漢武帝,初喪李夫人。・・・ 傷心不獨漢武帝,自古及今皆若斯。 …漢武帝 君不見穆王三日哭,重璧台前傷盛姫。 …穆王 盛姫 又不見泰陵一掬涙,馬嵬坡下念貴妃。 …玄宗 楊貴妃 縱令妍姿艷質化為土,此恨長在無銷期。 生亦惑,死亦惑,尤物惑人忘不得。 人非木石皆有情,不如不遇傾城色。 しかし、楊貴妃の場合は特別。 ○唐の玄宗帝は、もともと性情が色好み。 女を愛する心は深い。 皇后の名称を伏字にしている。唐書の記載をみると、なにかゴタゴタがあるようで、それを察している可能性があろう。後宮も、ヒエラルキーの世界であり、政治の動きと連関しており、その実情はよくわからない。 ○寵愛した后・女御は、 __后宮(元献)と、 女御の、武淑妃。 朝暮になく愛し、傍に付き従っていた。 ところが、二人とも次々と亡くなってしまった。 限り無く想いがつのり、歎かれたが、甲斐無し。 よく似た女人に会いたいものと願っていたので、 捜し求めさせたが、 さっぱりで、心もと無い状況。 皇帝自ら妃を捜しにお出ましなど考えにくい。帝国各地から選りすぐりの美女集めや、政治的婚姻関係を目指す動きが、官僚組織を通じて行われるのが常だからだ。 一方、本朝は「古事記」が示すように、天皇は自ら求婚するのが建前。 ○そこで、 天皇自ら、宮を出て、遊び行き、所々を見給けるに、 弘農@河南三門峡の楊一族の地に入り そこに住む翁 楊玄琰の庵に立ち寄ることに。 見ると娘がいた。 形ち端正にして、有様の微妙き事、世に並び無し。 光を放つが如き也。 使者は、これを見て、天皇に上奏。 天皇は喜んで、すぐに召すよう仰せになったので 連れてくると 初めの后・女御に増して、美麗で、二倍三倍もということで 天皇は喜んで、輿に乗せて。 三千人の中で、この女人だけ優れていたのである。 楊貴妃と呼ばれた。 う〜む。 本朝貴族の歌の世界である。 ○と言うことで、 他の事に係わらず、 夜る昼無しに、翫び続けた。 世の中の政には関心無く。 ただただ、 春は花を共に興じ、夏は泉に並て冷み、 秋は月を相見て長め、冬は雪を二人見給けり。 このご様子だったので、 わずかな御暇も無き状況となり、 この女御の御兄 楊国忠に、世の政をお任せになった。 この先安禄山登場となるのだが、通常耳にする話とは、ニュアンスが違う。 世の騒にて有けるを、 其の時の大臣にて、安禄山と云ふ人有けり。 心賢く、思量有ける人にて、 此の女御の寵に依て、世の中の失ぬる事を歎き、 「何で、此の女御を失なひて、世を直さむ」 と思ふ心有て、・・・ ○安禄山は密かに軍勢を整え、王宮に押入った。 天皇、恐怖。 楊貴妃を伴ない、王宮から逃亡。 楊国忠も共に逃げたが、 天皇の従臣 陳玄礼が楊国忠を殺害。 その後、陳玄礼は、鉾を腰に差し、御輿の前に跪いて、 天皇に拝礼してからもい挙げた。 「楊貴妃を哀愛なさっているので 世の政について、なにもお知りになれません。 このため、世の中は騒がしくなっております。 願わくは、楊貴妃を給わりたいのでございます。」 しかし、悲びの心情は深く、愛に堪へられず 受け入れることはできなかった。 楊貴妃の方は、逃げ去って、 お堂の内に入って仏像の光のもとに隠れていたが 陳玄礼が見付けて、捕えてしまい、 練絹で首を絞めて殺してしまった。 天皇は、それを見て肝を潰し、心が砕け、気が迷ってしまい、 雨のように涙が流れたのである。 堪へ難いご様子に見えたが、道理はご存じなので、 嗔恚の心はうまれなかった。 そして、 安禄山は天皇を追放し、王宮で政治を司ったが、すぐに死亡。 ここから先の記述に力を入れているのも注目点。 ○そんなことがあったので 玄宗は御子に譲位し、太上天皇に。 それでも、尚、この事件のことを忘れることができず、 歎き悲しまれて、 春は花の散をも知らず、秋を木の葉の落をも見ず、 木の葉は庭に積たれども、掃ふ人も無し。 そんなお嘆きがつのる日々が続いていたところに、 蓬莱に行くと云う方士が参上。 玄宗に、 「御使として、楊貴妃の居られる所を尋ねよう。」と。 天皇、大いに喜び、おっしゃった。 「それなら、楊貴妃が居る所を尋ねて、様子を聞かせよ。」と。 方士は、この仰せを賜わったので、 上は虚空を極わめ、下は底根の国まで、捜索したが 結局、尋ねることはできなかった。 方士が登場し、比翼連理も入れてはいるものの、漢詩的風合いより、和歌的情を感じさせる。 ○ところが、 「東海に蓬莱と云う島が有り、 島上の大宮殿に、玉妃の大真院があり そこに、楊貴妃がおいでになる。」との話があり、 方士は、蓬莱を尋ねて行った。 山の端に夕日が落ちて行き、海面に暗がりが広がり 花の扉もすべて閉じられ、人の声も聞こえなかったので、 方士は戸を叩いた。 すると、青い衣を着た、鬘を結い上げた乙女が出て来た。 乙女:「汝は何処からいらっしゃたお方か?」 方士:「我は、唐の天皇の御使である。 楊貴妃に申すべき事が有るので、 こうして、遥か彼方まで尋ねて来たのである。」 乙女:「玉妃は只今おやすみ中なので、暫く待つように。」 そこで、方士は待つことに。 そのうちに、夜が開けて来たので 玉妃は方士来訪の由を聞いて、方士を召し寄せた。 玉妃:「天皇は穏やかにお過ごしでしょうか。 それから、755年から今日に至る迄で、 国に何か事件がありましたでしょうか。」 方士は、その間の出来事を語った。 玉妃:「これを持って行くように。 天皇に"あの頃の事はこれを見て思い出すように。" と申し上げよ。」 方士:「玉の簪は世に有る物。 これを奉納しても、我が君は本当とはお思いにならないでしょう。 昔、天皇と君が、忍んで語らいなさった事で、 人に知られていないことがございましょう。 それを申し下さりませ。 それなら、真実とお思いになるでしょうから。」 玉妃は暫く思い廻した。 玉妃:「我、昔、七月七日に、織女と相見した。 その夕べに、 帝王が、我の側に立って仰せになった。 "織女・牽星の契りは、哀れである。 我も又、そうなることもあろう。 もし、天に居たなら、 願くは、翼を並べた鳥に成ろう。 もし、地に居たなら、 願くは、枝を並べた木に成ろう。 天とも長く、地とも久しいまま、終ってしまうこともあろう。 その恨みは、綿々と続き、絶える事も無いだろう。"と。 これを申し上げよ。」 方士は聞くと、帰還し、その由を天皇に奏上。 天皇、ますます悲しみを深め、 ついに、その思いに堪えられなくなり たいした時も経たずにお亡くなりに。 そして、まさに、楊貴妃が殺された場所に、 思い余って、行ってしまった。 そこは、浅茅が生え、風で揃って靡いている野辺で、 哀愁漂う地。 天皇のお心は幾ばかりかと感じさせたのである。 偲びて哀れとは、まさにこの事。 但し、安禄山が殺したといっても、 それは、世直しの為。 天皇も恨んだりはなさらなかったのである。 【ご教訓】 昔の人は、天皇も、大臣も、道理を知て、此ぞ有ける。 (C) 2020 RandDManagement.com →HOME |