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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.10.11] ■■■
[468] 源信主導の読み
往生教極楽往生譚で目立つのは比叡山。📖比叡山僧往生行儀
そうなる理由は、「今昔物語集」が「日本往生極楽記」に依拠しているせいもあるのかも知れない。この本は、どのようなジャンルと考えるべきか迷わされるところがあり、仏教書というよりは文芸書に近いのではなかろうか。
このことは、読者層は広かった可能性が高いということで、浄土教の広がり易い土壌を作り上げたという点では特筆もの。その著者が、源信のもとに入ったことで、流れが決した感じがする。

ただ、それを実現できた背景には、18世天台座主となった良源の力が大きかろう。貴族の子弟の出家者を寺内に抱え、摂関家との関係を第一に置いたから、天台の力は圧倒的になったからである。しかも、学僧重視を進めた上に、横川を"開かれた"拠点にしたから、状況は一気に変わったと見てよさそう。
しかも、良源は自分の世代(●)の隠遁往生志向の有力僧との関係も保っていたから、横川が往生教ネットワークのハブと化したことは間違いなさそう。
往生祈願の伝統としては、智光曼荼羅もあり南都にその流れは残っていたにもかかわらず、往生教は源信が核となっていったのは、そのお蔭でもあろう。それに、法相宗や華厳宗の学僧が念仏による極楽往生信仰一途に踏み込むには風土的大転換が必要だったこともあり、1世代は動きが遅れたように見える。
とはいえ、源信が圧倒的な地位を確立できたのは、"講"が素晴らしかったのではあるまいか。すでにとりあげたが、感動的な来迎イメージを打ち出す点で比類なきものだったということ。
東塔流の、「極楽遊意」に基づく檀那院式や、「順次往生講式」の前身スタイルは、それを越えることができなかったということになる。それはいかにもありそうなことで、外部ネットワークを持つ強みから、 総合プロデューサーが育つのは横川しかなかったと思われる。
言い換えると、曼荼羅図絵で浄土を観想するというより、眼前で来迎シーンが展開されるようになったということ。参集者一同が念仏を唱えることで一体化してしまい、五感が反応し、感極まる状況に至る訳だ。

【法相】📖興福寺僧一瞥[改訂]
【三論】📖三論成実論伝法僧
【真言】
 〇永観律師[1033-1111]@禅林寺(永観堂)…「往生拾因」 往生講
  ↑東大寺三論本院系光明山寺で扱ったが真言系。
【天台】
<山門派>📖源信物語 [5:横川の僧]
  −《n.a.》@西塔[別所]黒谷−
 ●禅瑜/黒谷僧都[913-990]:「浄土十疑論」
  −《兜卒堂》@横川兜卒谷−
 ●良源[912-985]:「極楽浄土九品往生義」18世
  −《檀那院》@東塔東谷−
 〇覚運[953-1007年]:「極楽遊意」
  −《恵心院》@横川兜卒谷−
 ●源信[942-1017]:「往生要集」
 └○慶慈保胤/寂心[931-1002年 賀茂忠行の二男]:「日本往生極楽記」
  −《妙香院》@横川飯室谷−
 ○尋禅/慈忍[943-1007年]19世
  −《宝幢院》@西塔東谷−
 〇勝範[996-1077]:「西方集」33世
  −《無動寺(明王堂)》@東塔南谷−📖比叡の塔・谷・房]
   _1相応/建立大師[831-918年]865年建立
   _2喜慶17世
   _3遍教
   _4慶円24世
   _5慶命27世
   _6慶範
   _7広算
   _8仁覚…[源師房3男1045-1102年]…順次往生講37世
   _9仁源40世
   10寛慶[藤原俊家三男1044-1123年]43世
  −《勝陽房》@東塔南谷−
 ┼┼〇真源[師:厳算 1064-1136年]…「順次往生講式」
<書写山>
 ●性空[910-1007年]
<多武峰>
 ●増賀[917-1003年]:「無限念仏観」

<寺門派>
円珍5世
├〇(増命)❺❼
│└○運昭
└●千観[918-984年]…「十願発心記(往生十大願)」
┼┼├〇観修/智静[945-1008年] ⇒解脱寺@岩倉
┼┼│└〇(唐房法橋)行円[986-1047年]:「念仏三昧記」
┼┼└〇慶祚[955-1019年]:「西方要観」「阿弥陀観私記」 ⇒大雲寺@岩倉
┼┼┼┼┼ ⇒園城寺五別所 尾蔵寺&994年微妙寺開基
├○惟首[826-893年]6世
├○猷憲[827-894年]7世
└○明仙
└○余慶/観音院僧正[919-991年] ⇒大雲寺@岩倉 20世

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