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■■■ 今昔物語集の由来 [2019.12.7] ■■■
[160] 比叡山僧往生行儀
「今昔物語集」の往生譚には、「日本往生極楽記」の円仁と増命は掲載していないが、他の比叡山僧は以下のように勢揃い。但し、#11,12は「大日本国法華験記」からの収載だそうだが。
  【本朝仏法部】巻十五本朝 付仏法(僧侶俗人の往生譚)
  [巻十五#_5]比叡山定心院僧成意往生語 …十禅師
  [巻十五#_6]比叡山頸下有往生語 …東塔 (僧某甲)
  [巻十五#_8]比叡山横川尋静往生語 …樗厳院十禅師
  [巻十五#_9]比叡山定心院供僧春素往生語 …十禅師 春岡/春素
  [巻十五#10]比叡山僧明清往生語 …明請/明清
  [巻十五#11]比叡山西塔僧仁慶往生語 …【越前】
  [巻十五#12]比叡山横川僧境妙往生語 …境妙/至妙【近江】
  [巻十五#15]比叡山僧長増往生語 …【阿波・讃岐・伊予・土佐】 [→四国辺地]
  [巻十五#16]比叡山千観内供往生語 …延暦寺伝燈大法師位 [→千観内供]
  [巻十五#31]比叡山入道真覚往生語
  [巻十五#27]北山餌取法師往生語 …《補陀落寺》延昌 [→餌取法師]

おそらく、これらが典型的往生ということだろうから、順に、臨終シーンを眺めていこう。

そこには、それぞれの行儀作法があるようだが、自ら死期を悟り、西方に向って端座合掌し静かに息を引き取るのが原則のようだ。
「酉陽雑俎」には、屈指の頭脳を持った僧の入滅の様子が記載されている。自ら死期を定め、師にお別れを告げ、独りで庵に入り心を鎮め、静かに世を去っていく様が印象的である。常人には能力が無い、鍛え抜かれた人だけができる、一種の自殺行為であろう。

最初から、物議を醸しかねない話。持斎など、どうでもよいと言いかねない僧である。
《成意》
 心浄く、染着する所が無い僧である。
 しかし、持斎を好まず、朝夕、物を食べていた。
 弟子がおり、当然ながら、師に問う訳で、
 「山上には、止事無き僧は数々おられますが、
  多くは持斎されております。
  我が師だけは、独り、斎食を避けて
  朝夕、お食事されておりますが。」と。
 師はそれに答えて、
 「我、もともと貧しき身。
  この院の毎日の供の他には、得る物は無い。
  そうなると、
  只今、物が有るなら、それに随って食することに。
  ある経典では、
   "心は菩提の障碍になるが、
    食は菩提の障碍にならない。"と。
  と言うことで、食するか否かで、
  ことさら後世の妨げになる訳ではないのだ。」と。
 弟子は、これを聞いて納得。
 その数年後。
 弟子に語った。
 「今日の我が備だが、
  何時もに比べて増量するように。」と。
 弟子は、師の言う通り、備を増して用意した。
 師は、食べると、弟子達にも分けてから、言った。
 「汝ら。
  我の、この備だが、
  皆がそれを食す事は、只今、今日までとする。」
 そして、一人の弟子に言い付けた。
 「汝、
  無動寺の相応和尚の御房に行き申し伝えるように。
  "成意が、只今、極楽に参ることになった。
   対面されるなら、彼の地の極楽で、ということになる。"」
 又、もう一人の弟子にも、
 千光院の増命和尚の御房に行って、
 同じように申し伝えよと言ったのである。
 弟子達は、これを聞いて、
 「その御言葉ですが、妄語になりかねませんが。」と言う。
 そこで、師は言った。
 「これが若し妄語で、我が今日死ななかったとしたら、
  狂って言ったと考えよ。
  汝らは、何ら愧じることはないぞ。」と。
 その言葉を頂戴したので、弟子は各々の僧房を訪問した。
 その二ヵ所から返ってこないうちに、
 成意は西に向って合掌し、居ながらにして入滅。
 返って来た弟子は
 これを見て泣く泣く悲しみ、貴んだのである。

(某甲)
 頸の下にがある僧がいた。
 医療では治癒せず、衣で隠していたが
 憚りありということで気になり
 人との交流をせず、横川の砂磑峰で籠居。
 日夜寤寐に念仏を唱へ、
 尊勝・千手等の陀羅尼を誦し、
 ただただ極楽往生祈願。
 そのうち、仏のお力で治癒してしまった。
 そこで、世の事を営むべしとも考えたが、
 そんな日々は短いということで
 籠居を続け、往生祈願の念仏三昧に徹した。
 そんな頃、この僧と同じ山に住む僧 普照が、
 院内の人に施そうと思い、麦粥を煮ていた。
 そのため、一晩、湯屋の鼎の辺りに居たところ、
 
(うたた寝してしまい、)
 アッという間に、艶ず馥しき香りが山に満ち、
 微妙な音楽が空から流れて来た。
 怪しいと思ったが、よくわからなかったが
 夢では、素晴らしい宝を載せた荘厳な輿があり
 砂磑の峰から西方を目指して飛び去っていったのである。
 法服を着た止事なき僧達が沢山いた。
 そして、色々な音楽を
 様々な天人の如き人等が奏でていた。
 皆、この輿を囲むように、前後左右にいるのである。
 輿の中をじっくり見れば、
 あの、砂磑の峰に住する僧が乗っているのだった。
 そこで、夢から覚めたのである。
 正夢が確かめたいと思っていたが、
 「あの、砂磑の峰に住する僧、
  今夜、入滅された。」と言う人がいた。
 

《尋静》
 邪見から離れ正直。物を惜しんで貪ることもない。
 来客があると、飯食を儲けて食べさせる。
 山外に出ず籠居し、
 昼は金剛般若経を読んで一日暮らし
 夜は阿弥陀念仏を唱へて夜を曙かし
 極楽往生祈願。
 73才の正月。
 病で悩み煩っていたが、
 毎三時に阿弥陀念仏三昧を修めるように
 弟子達に頼んだ。
 そうこうするうち
 2月上旬、弟子達全員を呼び寄せて言った。
 「今、我の夢に
  大きなる光の中に、数限りなき僧がいらっしゃた。
  そして、微妙な財物をのせた荘厳な輦を持ち
  微妙の音楽を唱えて、西方より来訪。
  虚空の中にいらっしゃる。
  これは極楽からのお迎だと思う。」と。
 これを聞いた弟子達は限りなく貴んだのである。
 その後、5〜6日後、
 尋静は沐浴し、清浄にしてから
 3日間、日夜飲食を断って
 怠らずに、一心に念仏を唱へ続けた。
 又、弟子を呼び
 「汝ら、
  今日、明日、我れに飲食を勧めたり、
  諸々の事を問い聞かす事をするでない。
  我、一心に極楽を観念するによって、
  他の事に思いを致せば、
  その妨害になるからである。」と。
 そして、西に向って合掌し入滅。


《春素/春岡
 幼時出家。止観法文に習熟。
 生死の無常を観じ、
 日夜、阿弥陀念仏を唱へ極楽往生祈願。
 74才の年、11月のこと。
 弟子 温蓮を呼び、言う。
 「今、阿弥陀如来がお迎えにいらした。
  お使に貴き僧と天童が来訪。
  共に白衣姿で、衣の上に絵が有る。
  花を重たよう。
  "年明け3〜4月は、我、極楽に参る時期となる。
   従って、今から、早速、飲食を断つように。"
  とお示しになった。」と。
 これを聞いた温蓮は
 泣く泣く貴び
 我が師と相見まえることも、もう幾ばくもないと、
 心細く悲しく思っていたが
 年開けると、そもままで4月に入ってしまった。
 温蓮は、往生できるこをと喜ぶべきとは思っているが、
 別れてしまうので心細いと思っており、
 そんな状況で、春素が温蓮を呼んで言った。
 「前の阿弥陀如来の使いが、又、来訪し、眼前におる。
  我れ、この国土を去る時も近い」と。
 そこで、皆で念仏を唱えた。
 日中のこと。
 春素は西に向って端坐し合掌し、入滅したのである。


《明清/明請
 俗姓藤原。幼時出家、密教学習。
 日夜、阿弥陀念仏、極楽往生祈願。
 年老いて、軽度だが罹病。
 弟子 静真を呼び、言う。
 「地獄の火が遠くに見える。
  我は、年来、見ての通り、
  念仏を唱て極楽転生を祈願しているが、
  その本意に反し、今、地獄の火を見ておる。
  だからといって、尚、念仏を唱へ、
  弥陀如来のお救けを求める外なし。
  他に誰かが救えるというものでもない。
  我れと共に、心を至し、念仏三昧で過ごそうではないか。」
 僧達に、枕元で念仏を唱えるようにたのんだのである。
 その後で、又、静真を呼び、言った。
 「眼前の地獄の火が消滅した。
  そして、西方から、月の様な光り来て照らしている。
  思うに、これは、念仏三昧の行で、
  阿弥陀如来が我れを助け、迎へてくれるのだと思う。」
 そして、泣く泣く念仏を唱えたのである。
 これを聞いて、喜び貴び、来てくれた僧達に伝え
 皆、一緒になって念仏を唱えたのである。
 その後、何日か経て、
 臨終近しと知り、沐浴して清浄にし、
 西に向って端座。合掌して入滅したのである。


《仁慶》
 越前から幼時に出家。師は仁鏡阿闍梨。
 顕密法文を学び、年来山に居たので、
 法華経読誦、真言行法修得、で成長。
 本山を離れ京に住むようになった。
 さらに様々な場所で修行を経たが、
 日々の法花経一部読誦は欠かさず、
 それを功徳としていた。
 そのうち、京の大宮に住むことに。
 老いてからは、
 世の中を哀れに味気なく思うようになり
 殊更に道心に励むように。
 僧房にあった具は投げ捨て
 両界曼荼羅を書き奉り
 阿弥陀仏像を造り奉り
 法華経を写経して奉り
 四恩法界の為の供養を行っていた。
 その後、それほど時が経たぬうちに病を患い
 日々、悩み煩うようになってしまったが
 法華経読誦は絶えずに行っていた。
 さらに、他僧の講では、法華経読誦をさせ、
 心を籠めて聞いていた。
 そのうちに、入滅し、葬儀が行われた。
 その後、隣の人の夢で
 大宮大路に、五色の雲が空から下りて来た。
 微妙の音楽が流れ、
 それに合わせて仁慶は剃頭し法服を着て香炉を取り、
 西に向って立った。
 すると、空中から蓮花台が下りて来た。
 仁慶はそれに乗って、空に昇り、
 遥か西を目指して去ったのである。
 と言うことで、これは仁慶持経者の極楽往生と呼ばれ
 仁慶の僧房にも伝えられ、弟子は貴び悲しんだ。
 四十九日の法要が執り行われ、
 その夜の夢に同じ様子が出て来た、という人がいた。


《境妙/至妙
 近江から幼時に出家。
 師に随って法法華経一部を受けて学び、
 日夜読誦し、暗誦できるようになった。
 他念無き持経者なので、読誦は20,000部に及んだ。
 ある時、行願寺へ移ることに。
 静寂な雰囲気で法華経を写経し奉てから、
 30座の講を儲けて講じた。
 講の結願の日は、十種の供具を儲て法の如く行った。
 そんな風な日々だったが、
 命の尽きる時を知り、
 比叡山に昇り、所々の堂舎を巡礼。
 昔の同胞達にも会い、不審き事等々を言い置いた。
 そして「これが最後の対面になる。」と。
 聞いた僧は怪しい話だと思った。
 境妙は行願寺に返ると、それ程経たぬうちに、病身に。
 すると、
 「これこそが最後の病。
  これを期に死ぬことになる。」と言い
 沐浴し、清浄な衣に着替え、
 お堂に入って、
 阿弥陀仏の御手に五色の糸を付け、それを引いた。
 その上で、西に向ぅて念仏を唱えたのである。
 さらに、多くの僧に頼んで、法華経読誦。
 懺法を行なわせ、念仏三昧を修させた。
 そうこうするうちに、境妙は貴くも入滅。
 その後、ある聖人の夢に登場。
 境妙聖人は金の車に乗っており、
 手には経を捧げ、多くの天童に囲まれ、
 遥か遠くに行くのであった。
 それを見ていた人は、
 「境妙聖人極楽儀式、不可思議也」
 と言っていたというもの。


《長増》
高僧が比叡を出て四国で乞食修行。[→]旧寺の後の林で、西に向って端坐合掌、眠るが如くに入滅。

《千観》
慕っている女に夢で往生姿を見せるところがハイライトと言えそう。[→]

《真覚》
○時平[871-909年] [→藤原氏列伝]

○敦忠
├┬┬┐四男
┼┼┼○佐理/真覚[右兵衛佐]
 村上天皇四十九日忌の後967年出家。
 真言の密法を学び、
 両界曼荼羅、阿弥陀の法を毎時三時に行う。
 一生これを絶やさずに続けた。
 年月を経て、
 多少病に罹っていたものの、苦しむほどではなく、逝去。
 その際、同僚の僧達に告げたのである。
 「尾が長い白い鳥がココにやって来て囀いた。
  "いざ、・・・"と。
  そして、西方に飛び去った。」と。
 さらに、
 「我、目を閉じでみると
  眼前に、ほのかだが、
  極楽の功徳荘厳様相を視ることができる。」と。
 入滅の直前には、誓の言葉を発し、
 「我、12年間、修行の善根あり。
  よって、」今日、極楽に回向する。」と。
 その夜のこと。
 3人の夢に、沢山の僧が乗り込んでいる
 竜頭の船が迎えに来た様子が現れた。


《延昌》
題名には比叡山が入っていないのは当たり前で、あくまでも15代天台座主になった延昌が出会った、餌取法師譚。悪行者でも極楽往生可能というお話。[→]延昌僧正の方は、その後念仏を唱へ、善根を修し、極楽往生したと言われているとの一行のみ。「日本往生極楽記」の延昌の話がココに収載されている訳ではないのである。「今昔物語集」編纂者は、延昌譚より、餌取法師の往生譚がより重要と指摘したかったのだろう。肝は心根であって、功徳の行動の物理的量ではないとの思想があると見てよいだろう。

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