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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.10.17] ■■■
[474] 役行者の役割[続]
さて、続き。📖→
小生の場合、役行者についての知識がほとんどないが、世間一般ではどうもそうではなさそうである。
由緒書きの立て札がある祠やお社を結構見かけるし、調べた訳ではないが、役行者を取り上げていそうな本が次々と出版されている印象があるからだ。

それもあって、修験道は古代からの宗派と見がちだが、実態はよくわからない。真言の聖宝/理源大師[832-909年]📖嫌味な間違いと天台の増誉[1032-1116年]📖本朝仏教の母が確立したとされているからだ。役行者時代から随分と後世のこと。

修験の行者は呪術者であり、行儀が重要だったろうから、すべて師による実地指導での伝承の筈で、祖師伝や教義を記す経典や解釈書の類は不要。真言や天台の宗派組織には本来馴染まない筈だから、大転換だ。と言っても、呪術による加持祈祷という点で、密教とは桁違いに親和性が高いのは間違いないが。
ともあれ、10〜11世紀に大変貌を遂げたのである。

そして、役行者の祖師としての地位が確定したと見ることもできよう。
そこからは一気呵成に役行者伝説が積み上がっていったのだと思う。実際、伝記類はかなりの数にのぼる。(銭谷武平:「役行者伝記集成」東方出版 2016年の目次から。)・・・
 <略伝>
【平安時代】「日本霊異記」「本朝神仙伝」「今昔物語集」「扶桑略記」「水鏡」「多峯縁起」
【鎌倉時代】「源平盛衰記」「古今著聞集」「私聚百因縁集」「沙石集」「元享釈書」
【室町時代】「三国伝記」「修験修養秘決集」
【江戸時代】深草元政上人:「扶桑隠逸伝」1664年 常円:「修験心鑑鈔」1672年
 <伝記>
「役行者本記」「役君顛末秘蔵記」「役君形生記」「役公徴業録」

伝記は、微に入り細に入りである。にもかかわらず、<史書>登場は極めて限定的。
「続日本紀」(699年項)役君小角流于伊豆島。初小角住於葛木山。以咒術稱。外從五位下韓國連廣足師焉。後害其能。讒以妖惑。故配遠處。
「今昔物語集」も後半欠文だし。
ここで、成程感を味わうことになる。

聖徳太子は反仏教の物部氏を滅亡させたが、それはあくまでも中央という土俵内での争いである。「古事記」からすれば、本朝は中央と地方の二重構造だったと思われ、天皇直属的武人勢力を平定しただけでは全体構造は変わらない。
反仏教勢力は、石上を紐帯として全国ネットワークを形成していたに違いないからだ。それに、奈良盆地内が仏教色に染められてしまったことを意味する訳でもないだろうし。
ところが、それを大転換させた勢力が存在していたのである。それが、役行者。山岳行者は土着も多いが、遊行的に各地の霊山で修行をする遊行タイプも少なくない訳で、緩いが全国ネットワークが形成されていたと見てよいだろう。個々の修行者には、朝廷の力が及ばないから、たとえ禁じられようが自由に動きまわった筈で。当時の情報伝達速度で言えば、一番早い可能性さえあろう。
その勢力が、仏教信仰の役行者支持でまとまってしまったということ。これで本今朝での仏教への流れが決した訳だ。
これこそが、「今昔物語集」編纂者の見方。

<史書>の記述は貴重である。
韓國連廣足師は物部一族の系譜に属す道士的山行行者としての"官の"呪術師。731年には典薬頭になる。師の役行者を讒言で遠流させたが、役行者は恩赦で戻ってくる。
たったそれだけだが、常識的な推定が可能。

讒言は、まず間違いなく"葛城の一言主"に係わっていよう。殺戮を厭わぬ大長谷若健命が畏れ敬ったのだから、関係するなど禁忌破り以外の何物でもなかろう。
ところが、この後、葛城山は一言主を完璧に無視した形で仏教一色となる。土着の山の神である一言主は、反仏教ならそれこそ土中に閉じ込められかねず、祭祀を続けるつもりなら仏教帰依を鮮明にせざるを得ないのである。
各地の土着の山の神は、独立心旺盛になる可能性もあり、そこらに釘を指す必要があり、その役目を役行者の勢力が一手に引き受けたと言ってよいだろう。

全国各地に役行者飛来伝説が残っているのは、その動きを意味しているのでは。
長年崇拝していた山の神を失う態度を示す勢力は稀だろう。そして、その姿勢に拍手を送るかのような役行者の奇譚が次々と生まれていくことになる。

(尚、仙人の飛翔術の本朝のメッカは竜門寺だろう。久米仙人[巻十一#24]だけでなく、比叡山 空日@勝蓮花院の門下で修行した陽勝[869-901年]も飛行[巻十三#3]。増賀聖人の甥の春久聖人も住している[巻一二#23]。)

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