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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.10.16] ■■■
[473] 役行者の役割
「今昔物語集」の本朝部冒頭の3譚は、聖徳太子⇒行基⇒役行者となっており📖本邦三仏聖、仏教史はこのように見るべしとの主張がみえてくる。
  【本朝仏法部】巻十一本朝 付仏法(仏教渡来〜流布史)
  [巻十一#_3] 役優婆塞誦持呪駈鬼神語 (後半欠文)

最初は、ふ〜ん、としか感じないが、様々な話に触れ、それなりに頭を使っていると、役行者譚の後半が削除されていることの重みが目につくようになってくる、その部分が突然輝き出すのである。
そして、役行者譚とは何だったのかがわかってくる。

小生など、もともと、役行者について、存在そのものが疑われる伝説上の山岳行者の名前という知識しか持っていなかったから、そうなると言えなくもないが、葛飾北斎📖→と古事記📖→に触れて来たせいもある。

その北斎だが、日本人の標準的な考え方をしているとは言い難いものがあるとはいえ、その信仰(日蓮宗、妙見菩薩、老荘思想、修験道的霊山)の複雑さとわかりにくさ、という点では典型と言ってもよいのでは。
役行者については、道を切り開く鉄斧を持つ弟子の夫婦の鬼(義覚/義学+義玄/義賢)を従えている山岳における姿の図がある。その5人の子(真義、義継、義上、義達、義元)は修行者用宿坊主である。書写山性空聖人も二人の護法童子(乙天+若天)が守護しており、呪術による加持祈祷の霊験を護法童子がもたらすとの観念は、ここらが発祥だと考えてよさそう。

北斎の鋭いところは、仏教の須弥山とは、山を世界の中心とみなす思想が根底にあることを見抜いた点。入山するとは、夜明けの御来光の感動を旨に、宇宙を実体験で感じることにほかならない。それは、形而上学とは無縁だし、哲学ではないし、言語表現も至極困難。つまり、富士山図像とは、そんな山の霊気を写し取る意味がある訳だ。
その山だが、天竺・震旦・本朝ではいささか異なる。天竺では人踏未達のヒマラヤの雪山だし、震旦は深山としての果てしなき山並みである。本朝には、そのコンセプトの象形文字が入ってきたものの、基本、単山である。3山構成図になっている場合は、3尊の仏教的構成に従っているだけのこと。西方浄土と東方浄土を暗示している訳だ。
「今昔物語集」の三国観は、頭抜けている。

しかし、この3山構成もありうるところが、本朝の特徴である。一見、自然のママ信仰に思ってしまうが、北斎絵画からみればそうではないことが一目瞭然。象徴化されたミニアチュール形状でとらえるのだ。それが故に貴いのである。
北斎は、西洋的な図形分解と遠近法写像という分析的手法を駆使して、本朝の観念の本質を指摘したことは明らか。江戸城、お寺の屋根、仕事に打ち込む職人の姿に、無意識的にその形状を感じとる風土が存在していることに気付いた初めての人であろう。それは美意識でもあるが、底流となっている信仰の発露でもある。

その観点で考えると、役行者の山信仰とは古代の感覚を復活させたとも言えよう。
前方後円墳とは、山の象徴と思われるが、それは役行者や北斎がイメージするものとは違ってほとんど丘。水田地域を睥睨する山としては大きな意味があったろう。
しかし、南九州の海人や、その勢力圏の山懐の谷間の扇状地へと降臨してきた山人の尊崇対象の形状にはそぐわないものになってしまったのは否めない。つまり、役行者の山信仰とは、前方古円墳的統一信仰を消し去る大きな歩を進めたということになる。

役行者の出自でもあり、根拠地でもあった葛城山だが、ここは前方古円墳出現以前の「葛城王朝」の地でもある。📖→葛城高岡宮
↓葛城山
┼┼↓葛城川
┼┼↓R24
┼┼
←九品寺
▲<←葛城高岡宮◆2
←一言主神社
┼┼
──┤←一水越川

役行者は、尊崇対象を、国見山ではなく、高地性集落時代の葛城山であることを高らかに宣言したのである。📖→葛城〜金剛〜巨勢時代
地勢的にはこうなっている。📖→[6] 葛城室之秋津嶋宮
↓R24

 ←JR和歌山線ごせ駅

↓葛城川

└──────○─ ←たまで駅
└──┐
┼┼┼┼←玉手丘上陵◇6
←掖上博多山上陵◇5
┼┼┼┼←葛城掖上宮◆5
┼┼←今出 池之内
←葛城山
┼┼←小碓命(倭建命)陵
┼┼┼┼┼←国見山
┼┼←宮山古墳=葛城室之秋津嶋宮◆6
─┤∨∨∨∨∨][∨∨∨←大口峠
←巨勢山

←金剛山

とりあえず、ここで一段落し、これを踏まえて、歴史的にどう位置づけられるかを続けて考えてみようと思う。

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