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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.10.22] ■■■
[479] 藤原敦忠の歌
「今昔物語集」編纂者撰和歌集の2番から。📖和歌集
  [巻二十四#32]敦忠中納言南殿桜読和歌語
 小野宮左大臣藤原実頼が執務中に所望し
 土御門中納言藤原敦忠参上。
 秀麗で和歌管弦の才あり、
 藤原時平と在原棟梁女の子で40才程の歌人。

  藤原敦忠土御門中納言1首
  延喜御時 南殿に散りつみて侍りける花を見て
  殿守の 伴の御奴 心あらば
  この春ばかり 朝ぎよめすな
  [拾遺#1055]
 素晴らしい出来で、返歌も難しいとされ、
 三十六歌仙の忠房[n.a.-929年]の渡唐時旧歌を思い出して詠われた。
 そして大いに褒められたのである。


花吹雪で落ちてしまった花弁を掃除するな、というだけで何の技巧も感じさせない歌だが、多くの人の琴線に触れるのであろう。
敦忠は30代の947年に逝去しており、その年に実頼は左大臣を拝命しているから、この話はフィクションかも。つまり代用返歌とは、シナリオライター時平に失脚させられた道真の遣唐使決定時の歌を意味していることになる。桜はその時からの古木だったのだろう。

尚、この歌は、三十六歌仙の宮廷歌人源公忠[889-948年源国紀2男/光孝天皇孫]とされているようだ。関白藤原忠平に仕え掃部寮に属していたとされる。

敦忠の母方は在原業平の家系であり、貴公子として一世風靡した人物としては申し分ない。
三十六歌仙でもあり、上記の歌の如く、ことさら風流を好み、数寄屋を構えて伊勢📖→とその子中務を招いたりしたと言われる。
冬嗣[775年-826年]
├┬┬┬┬┐
長良[802-856年]
│○良房[804-872年]
良方[n.a.]
├┬┬┬┐
国経[828-908年]
┼┼遠経[835-888年]
┼┼┼基経[836-891年]…良房養子(長良三男)
┼┼┼│○高経[n.a.-893年]弘経[838-883年]清経[846-915年]
┌──┘
├┬┬┐
時平[871-909年]
│○仲平[875-945年]
┼┼忠平[880-949年]
┼┼
┼┼実頼[900-970年]

敦忠[906-943年]

「小倉百人一首」#43収載はもちろん恋歌。
 逢ひ見ての のちの心に くらぶれば
  昔は物を 思はざりけり
  [「拾遺和歌集」巻十二恋二#710]
ついにかなった逢瀬だが、かえって想いが深くなり、どうにもならないというのだから、遊び人ではないことがわかる。
但し、もともと、"《時平》大臣伯父《国経》の妻を盗む"で誕生し育ったのだから血筋的にはピカ一。📖藤原氏列伝

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