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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.10.29] ■■■
[486] 定子と彰子の歌
素人的には、平安文芸を語るとなると、歌を詠まず随筆で勝負した「枕草子」の清少納言と、歌人であると自負し大部の創作モノ「源氏物語」を成した紫式部の対抗が気になるが、「今昔物語集」ではどちらも取り上げていない。

このお二人、漢文を読みこなす点で才が飛び抜けて長けているとは言うものの、それは"女房兼家庭教師役"としての要件以上ではなかろうと見ていたかも。その上で評価すれば、前者は、歌詠み人へのインストラクターとして極めて優れているとなろうが、後者は、展開中の王朝恋歌文化讃嘆者でしかないとされるかも。
両者の歌を並べたいところだが、それが難しいので、それぞれが仕えていた先で代替することになるのは自然な流れ。もっとも、後世の"女房三十六歌仙"@鎌倉時代中期では両者ともに選ばれているが、対戦相手になってはいない。

前者は定子、後者は彰子となる。
ただ、どんなジャンルにするかは、頭を悩ましたに違いない。

と言うことで、「今昔物語集」編纂者撰和歌集の11番は東門院(藤原彰子)[985-1074年]と一条院皇后宮(藤原定子)[976-1000年]の一条天皇[980-1011年]を偲ぶ歌の対比。📖和歌集
  [巻二十四#41]一条院失給後上東門院読和歌語

両者の系譜はこうなっている。📖系図@藤原公任の歌
兼家[929-990年]
├──〇道隆[953-995年]関白
┼┼└──△定子[977-1001年]
└──〇道長[966-1028年]関白
┼┼┼├──△彰子[985-1074年]
┼┼┼├──〇頼通[992-1074年]
┼┼┼└──〇教通[996-1075年]
┼┼┼┼┼┼藤原公任女[1000-1024年]

○東門院(藤原彰子)1首
 一条院うせ給ひてのち なでしこの花の侍りけるを
 後一条院(敦成親王)[1008-1036年]幼くおはしまして
 なに心もしらでとらせ給ひけれは おぼしいづることやありけむ。

 見るままに 露ぞこぼるる おくれにし
  心も知らぬ 撫子の花
 [後拾遺#569]
「撫でし子」は定番。大伴家持が格別に愛した花である。
野の花ではなく、種から栽培して愛でる植物である。📖秋の七草選定基準[その3]

○一条院皇后宮(藤原定子)2首(1首未収録)
 一条院御時 皇后宮かくれたまひてのち
 帳の紐に結びつけられたる文を見つけたりければ
 内にもご覧ぜさせよとおぼし顔に
 歌三つ書き付けられたりける中に・・・

 夜もすがら 契りしことを 忘れずは
  恋ひむ涙の 色ぞゆかしき
 [後拾遺#536]
 知る人も なき別れ路に 今はとて
  心ぼそくも 急ぎたつかな
 [後拾遺#537]
 煙とも 雲ともならぬ 身なれども
  草葉の露を それとながめよ
 [未収録 後拾遺逸歌]
辞世の句ということになろう。希望通り、鳥辺野に土葬。

あくまでも、貴族の世の中の常識のなかでの情緒共有を旨として生きることに最高の価値を求める人と、個々人の精神的自由を愛して来た人の違いが歴然と現れている。
精神的自由そのものに全く気付かずに生きる人と、それを知って悩むことの貴さに気付いた人の違いともいえよう。両者の溝はとてつもなく深いが、それはどうにもなりませんゼ、ワッハッハ、というところでは。

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