表紙 目次 | 秋の七草選定基準[その3] 秋の七草の続き。[→その1] [→その2] 「山上憶良詠秋野花」を再掲しておこう。 秋の野に 咲きたる花を 指折り かき数ふれば 七種の花 萩{芽}の花 尾[乎]花 葛花 なでしこ[瞿麦]の花 をみなへし[姫部志] また藤袴 朝顔[朝皃]の花 [万葉集#1538] 萩、ススキ、鹿の組み合わせは、恋の季節たる秋の情緒の象徴。憶良でなくとも、万葉人は皆そう感じていたに違いない。もちろん、野の風情を自分の家の庭に取り込むという観点での話。 問題はその後である。 小生は、葛花、なでしこ[瞿麦]、をみなへし[姫部志]は一括りと見る。恋のパターンに応じた花々に映るから。一見、野の草に見えるが、これらは貴族の庭に入ってきた筈。 家で野に居る気分になって、愛でたということ。萩とススキも植え込んだに違いないが、こちらはいわば背景である。通い婚的に里の恋人の家へ訪れ、朝帰りするシーン。葛花、なでしこ、をみなへしは、その女性を想い出させるもの。もちろん、3種揃ってもよいが、1種なら、特別に愛するお方が存在しているということになる。 単身赴任となれば、それは恋人ではなく、妻や愛娘になったりもする。 まず<葛>だが、秋の花ということで選定されてはいるものの、題材としては、花よりは、蔓性植物の特徴である繁殖力の強さが主流のようだ。もともと、クズは国栖特産品[吉野川上流]として知られており、要するに澱粉採取用の植物だ。それ以外に、特段に注目する点は無いということでもあろう。万葉集で「花」を言い出したのはなんと憶良一人。 所謂女性らしさという点での、弱々しく可憐とのイメージからは程遠いし、華麗な花とも言い難いのだから、まあ、当然ではないか。 逆に、恨み草という名前があるらしい。風が吹くと葉が裏返るということなのだろうが、女心と秋の空の時代感覚臭紛々。平安貴族の振り振られお遊びセンスだろう。 さすれば何か、となれば、布感触の象徴と見るのが自然。咲いた花を見て、ふと、アノお方の家で触れた葛布を想いだすのである。丈夫だろうから、もちろん布団生地として。 着衣用の帷子として使われていたのかも知れぬが。 【寄草】 をみなへし 佐紀沢の辺の 真葛原 いつかも繰りて 我が衣に着む [万葉集#1346] <をみなへし>も原に生える草として、同類的な扱いを受けていることがわかる。 漢字表記では、普通は「女郎花」。憶良の原文でも「姫部志」であり、いかにも恋人を意味していそう。佳人部司といったところか。美人局としたいところだが、そうすると違った意味になる。おそらく、オミナエシの漢字表記は五万とあろう。日本語の民なら、この面白さを味わわねば。 もちろん、中国語だと黄花龍芽草といった無味乾燥な用語になってしまう。但し、中薬の別名があり、敗醤と呼ばれていたとか。腐敗した醤の臭いがすると言うのだから、これでは一番嫌われる草になりかねまい。そのような語彙が広まる訳がない。 要するに、美人あるいは佳人の"おみな"が植えし秋の草ということ。万葉人は、そんな人の傍らに出かける時刻を今か今かと思いながら昼間を過ごしていたのであろう。それこそが秋の風情。 <なでしこ>は、字の通り「撫子」である。大伴家持が格別に愛した花である。中国語の瞿麦/石竹を使うこともあるが、それは渡来の唐撫子であり、大和撫子こそが本流な訳である。 言うまでもないが、愛でる対象は栽培植物であって、野の花の方ではない。だからこその思い入れがある訳だ。 【詠庭中牛麦花歌一首】 一本の なでしこ植ゑし その心 誰れに見せむと 思ひ始めけむ [大伴家持 万葉集#4070] 【又家持見砌上瞿麦花作歌一首】 秋さらば 見つつ偲へと 妹が植ゑし やどのなでしこ 咲きにけるかも [大伴家持 万葉集#464] 移植ではなく、種を蒔いて育てていたのだから、本格的である。 【大伴宿祢家持贈坂上家之大嬢歌一首】 我がやどに 蒔きしなでしこ いつしかも 花に咲きなむ なそへつつ見む [大伴家持 万葉集#1448] 女性に愛された花でもあり、恋人の象徴植物と考えてもかまわぬだろう。ただ、撫子の原義は愛娘感覚だった可能性が高そう。 【(十八日左大臣<宴>於兵部卿橘奈良麻呂朝臣之宅歌三首)】 うるはしみ 我が思ふ君は なでしこが 花になそへて 見れど飽かぬかも [大伴家持 万葉集#4451] おわかりだろうか。 憶良は、家の庭で秋の風情を楽しむなら、先ずは背景的に萩とススキが必要。その上で、葛、なでしこ、おみなえしのどれかを植えるしかないネと言っているに過ぎない。これには、万葉人皆納得では。 ただ、3種のどれに感じ入るかは、人それぞれ。 「超日本語大研究」へ>>> トップ頁へ>>> (C) 2013 RandDManagement.com |