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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.12.19] ■■■
[525] 斑鳩三寺
聖徳太子存命中建立とされる七大寺は良く知られているが、この選定でよいのか、どうもしっくりこない。
大和
 法隆(学門)/斑鳩寺
 法起寺/池後寺[尼寺]@斑鳩
 橘寺[聖徳太子生誕地:菩提寺]@明日香
 葛木寺[尼寺]@一説:橿原
山城
 広隆寺/蜂丘寺
摂津
 (四)天王寺

一般には、押しも押されぬ観光地である、斑鳩三寺[法隆寺+上宮王院/夢殿+中宮寺[尼寺]・法起寺・法輪寺]が代表的な聖徳太子寺だが、これを中心に選ぶ発想ではないのが気になるところだ。
あくまでも"存命中創建"に拘っているのかよくわからぬが。
聖徳太子の母 穴穂部間人皇后供養のための尼寺で弥勒菩薩と天寿国曼荼羅繍帳で知られる中宮寺は間人皇創建とされるが、いかにも軽視しているように見えてしまうが、大寺でないからか。

それに、法隆寺東院北方三井にある法輪寺も欠く。
史書に記載が無く、寺伝も消滅しているので、聖徳太子建立ではなさそうと見なされたのだろうか。
法隆寺式配置の七堂伽藍跡が確認されており、創建時造像とみられる本薬師如来坐像と伝虚空蔵菩薩像が現存していると言うのに。
もっとも、伝承が無い訳ではなく、「上宮聖徳太子伝補闕」9〜10世紀、「上宮聖徳太子伝補闕」917年では、法隆寺焼失後に百済人が創建とあるそうだ。
「今昔物語集」成立後ではあるが、「聖徳太子伝私記」1238年には、聖徳太子の子山背大兄王が太子病気平癒祈願で622年建立と。いずれにしても、太子創建ではないということか。

しかし、上記に入っている、法輪寺東方の法起寺は、聖徳太子の別荘であり、山背大兄王が寺にしたという伝もあるのだが。

どの道、状況はよくわからないのである。

尚、「日本書紀」には、621年聖徳太子死後の、推古天皇代624年現在で46院存在するとの記載がある。これらのほとんどの寺に、聖徳太子と関係があったとの伝承があっておかしくないが、残念なことに、これらの寺の同定はえらく難しい。

以下の寺は素人的には上記に加えて、太子創建寺としてもよさそうな感じはするものの、それとても証拠不十分。
大和
 施鹿園寺/平群寺
 熊凝精舎
 豊浦寺/桜井寺
 當麻寺
山城
 六角堂
河内
 智識寺=太平寺廃寺📖知識結
近江
 芦浦観音寺@草津

こんなことがおきるのは、聖徳太子事績に関しては、抹消したのか、書けなかったのかわからないが、タブーが多かったことを意味していそう。

そんなこともあってか、「今昔物語集」編纂者は、(四)天王寺由緒だけは収録しているものの、主要3寺については欠文にしている。
  【本朝仏法部】巻十一本朝 付仏法(仏教渡来〜流布史)
  [巻十一#21] 聖徳太子建天王寺語📖南都の寺
  [巻十一#20] 聖徳太子建法隆寺語 (欠文)
  [巻十一#33] 秦川勝始建広隆寺語 (欠文)
  [巻十一#34] □□□建法輪寺語 (欠文)
タイトルからすると、広隆寺と法輪寺は太子建立と見るべきではないということか。
確かに、山城の地の寺の場合は、聖徳太子創建と言うよりは、秦系氏族の創建と見なす方が、歴史の流れを見る上では的確と言えそう。📖神仏習合推進者

一方、法輪寺創建談は色々あって、どれにしても公表を憚られる事績が含まれている可能性が高そう。おそらく、ここはドラフトも作らず、タイトルだけにすると早くから決めていたのだろう。
素人からすれば、法隆寺伽藍がなんらかの理由で失滅し、その代替として法輪寺が急遽建立されたとしか思えない。

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