■■■ 古事記を読んで 2013.11.16 ■■■

勾玉文化

古事記では、八咫鏡、八尺瓊勾玉、草那芸之大刀を、瓊瓊杵尊が天照大神から授けられたと記載されている。
ところが、日本書紀だと、「一書に」との引用がなされているだけらしい。皇室の三種の神器なのに、正史としては意義が認められなかったのだろうか。

魏志倭人伝では、最後の行に、壹與が白珠五千孔と青大句珠二枚を獻上したことが記載されており、大句珠が倭の誇る宝だったことは明らかなのにもかかわらず。

この記述で面白いのは、「珠」とされている点。
普通は海産の"真"「珠」を指す用語で、翡翠は石だから本来なら「玉」なのに、倭からの到来モノなので、「珠」扱いにしたようだ。
確かに、中国王朝にとっては、ビックリ仰天モノだったかも。多分、全長20〜30cmだろうから、大きかったこともあろうが、コリャそこらの玉とは違うナと感じたに違いないからだ。硬玉の場合、他の宝石のようには割れないし、表面も超硬度で、とても加工どころでないことにすぐに気付く筈だから。しかも、色が吸い込まれそうなアオとくる。・・・と考えるのは、日本的か。

想像するに、岩から採掘したのではなく、川の底で発見したとの説明がなされたからだろう。そんなことなど、歌があるのだから、すぐに想像がついて当たり前だが、素直に読もうとはしない人が多数派。それが我々の住む社会である。
  沼名川の 底なる玉
  求めて 得し玉かも
  拾ひて 得し玉かも
  あたらしき 君が 老ゆらく惜しも

    [万葉集#3247]
言うまでもなく、沼名川は糸魚川/姫川辺り流域にあるころになる。そう指摘した学者もいたに違いないが完璧に無視されたのである。
・・・などと素人が平然と言えるようになったのは実に喜ばしいこと。なにせ、以下のような、なんの証拠もなさそうな主張が定説だったというのだから。反面教師そのものと言えよう。
 ・日本の翡翠は雲南からやってきた。
    (何故か、雲南祖先説が大好きなのである。)
 ・日本の勾玉は軟玉が多い。
    (大陸到来文化としておけば気楽ということ。)
アジアでの硬玉の産地は今ではミャンマー北部のカチン高原一色の感じだが、開発が始まったのは遅く、古代の流通に関与していたとは思えない。ロシアの西サヤン山脈やカザフスタン(中国国境地域か。)にしても、おそらく同じである。中国の都への伝来話が無いからだ。つまり、大陸には軟玉しかなかったということになる。硬玉が欲しければ、日本から得るしかなかったのである。
加工し易いから軟玉の方が嬉しかったといえなくもないが、それは後代の発想ではなかろうか。玉とは傷がつかないほど硬いからこそ希少価値が認められたのであり。古代に、軟玉が貴重と見なされた可能性は低かろう。なにせ、硬玉の存在を知ってしまったのだから。

今では、日本人は翡翠好みとは思われていないから、日本がアジアで独占的な硬玉の産地だったとか、硬玉を特別視していた社会だったという点に、誰も関心をもってはいまい。残念至極。

そうそう、「縄文時代を通じて勾玉の大きさは、比較的小さかった。」との解説をよく見かける。何を主張したいのかよくわからぬが、この手の主張も要注意である。少なくとも、鵜呑みにすべきではなかろう。

小生は、縄文時代の初期は、発見したままのムクが玉だったと見る。硬玉の加工技術があったとは思えないからだ。従って、大きい玉は結構多かったと思う。それに、大きいほど威力を感じるだろうから、珍重された筈。
しかし、すぐに穴明け技術を開発したから凄い。こんなとんでもなく硬い材質の石に綺麗に穴を明けるのだから脱帽もの。なにせ、土器があっただけで、金属など皆無の頃なのだから。しかも、短期間のうちに、分割/形状加工技術まで完成させてしまったのである。
こんな硬い石は大陸には存在していない筈だから、倭の独自技術ということになる。もちろん、片手間にできる仕事ではないから、大勢の専門職人が知恵を絞って頑張ったのだ。現代で言えば、企業内で研究開発に携わる材料屋さん達のような存在。黒曜石加工を通じてスキルを研ぎ澄ませてきた集団なのだろう。縄文期にそんな人達が大勢存在したのだから驚異的である。

まあ、そこまで入れ込むのもわからんでもない。魂が吸い込まれるようなアオの神秘的な色に感じ入った気分には共感を覚えるからだ。ただ並べただけの硬玉ではなんの変哲もないが、うす暗いところで後ろから光を当てると、なんとも言い難き美しい光が生まれ、それこそ感動ものである。白砂、鏡、アオ玉が織り成す色彩は、南洋の風景を始めて見た瞬間の驚きとなんらかわらなかったかも。
それに、古事記の記載からみて、「青」こそ、伸びていく活力そのものというのが、古事記が示す、倭の哲学そのものでもある訳だし。
  爾 伊邪那岐命 告 桃子
  汝如助吾
  於葦原中国 所有"宇都志伎"「青人草」之
  落苦瀬 而患惚時可助


ただ、1尺もあるような重い玉を首から下げて動き回るのは、いくら強健といっても無理である。従って、身に着けるとなれば、小さなものにして、いくつかぶる下げることになろう。
その感覚は、建速須佐之男命と天照大神の宇気比・誓約を読めばわかる筈。「八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠」を受け取って噛み砕くのである。
玉は、みづらや手に巻いて装着しており、動物の牙や貝の霊力を得るのと同じような役割と見るのが自然だろう。

勾玉を月や太陰大極図と考える主張があるらしいが、大陸なら言えそうな気もするが、古事記をそのまま読む限りあり得ない話だと思う。
  土器時代の勾玉の意味 (2009.3.12)

このように、極めて重要な地位を占めていた勾玉だが、様々な貝の装飾品と同様に、歴史の表舞台から突然消えていく。ただ、貝とは違って、玉に関してはどうしてそうなったか、それなりのシナリオを描くことは可能である。
と言うのは、元興寺塔阯から翡翠勾玉が出土したからである。このお寺は「佛法元興之場、聖教最初の地」であり、枢要な地位を占めていたのだが、法隆寺とは違って、それこそ玉と一緒に一気に衰微してしまったのである。(蘇我氏の氏寺としての飛鳥寺→法興寺→聖徳太子創建の飛鳥大寺→聖武天皇勅願の元興寺、という流れ。)

要するに、蘇我氏繁栄の背景には、朝鮮半島への翡翠硬玉交易があったということだろう。それをバックに、半島内紛の動きに乗って傭兵事業を上手く展開できるようにとりはからったということではないか。
その交易にたいした意味がなくなったので打ち切りということだが、倭を支え続けてきてくれた勾玉に対する感謝の念を示すためか、怨念封じかは定かでないが、仏教における象徴墓である塔に勾玉を埋葬した訳である。時代は変わったということ。
それは、東大寺の不空羂索観音の宝冠にも当てはまること。青のガラス玉と翡翠玉が数限りなく散りばめられている豪華な一品である。ここまで凝った仏像装飾品を聞いたことがないからでもある。呪術的な玉を身に着ける慣習を断ち切るとの強い想いが籠められて作られた可能性もありそう。あるいは、宝石を巡る争いはもう懲り懲りということかも。
そもそも、不空羂索観音自体、京都では聖徳太子信仰の広隆寺位しか祀っていないようだし。
  京都の仏像拝観 [不空羂索観音] (2010.11.26)

こののち、翡翠硬玉は貴族生活や宗教行事の表舞台から忽然と消えていった訳である。そして、装身具文化も失せてしまったのである。
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