■■■ 古事記を読んで 2013.12.3 ■■■

古事記本の選び方[続]

インターネットソースで十分と考え、それで古事記を読むのも悪くはない。
国立国会図書館 近代デジタルライブラリーをじっくり眺めるのも、なかなか乙なもの。問題はリーダー機器が今一歩で、たいそう疲れる点。こればかりはなんとも。
  → 古事記本の選び方(2012.8.4)

つくづく思うが、義務教育で古事記を習わなくて幸いなるかなである。
皇国史観だからと言う話ではない。そもそも、天皇家の事績と系譜を整理するために編纂されたものなのだから、それは当たり前の話。
「欠史八代」などという、恣意的な見方を暗記させられたりすることになりかねない方が余程問題と考えるからだ。表面的には軍事独裁国家時代と正反対の主張に映るが、ボスが決めた見方を全員に強いるやり方を繰り返している点では五十歩百歩。それにしても懲りない人達である。

ともあれ、小生は、古事記はピカ一の歴史書と考えており、チラリと目を通すのではなく、じっくりと触れるべき書だと思う。自分の頭で考えることができるようになってから読むべきもの。そうでないと、さっぱり面白くなかろう。

ただ、原文はそうそう簡単に読めないし、書き下しに直してもらっても、素人は力量不足だからどうやら読んでいる状態でつらいものがある。と言って、現代文にされてしまうと、筋を追うだけになってしまい、つまらないこと夥しい。
そうなると、インターネットで原文を眺めるのが一番と思ってしまう訳である。

しかし、一寸、前後を調べたいとなると、残念ながらインターネットリソーシスは不親切でほとんど役に立たない。どうしても、註付の校訂本に頼るしかなくなる。もちろん、何種類かのテキストがある訳だが、素人にはその評価能力はないから、たいして検討もせずに、適当に選定するしかない。例えば、とりあえず図書館から借りてきたりとなる。
  → (2012.12.2) ・・・「校注:山口佳紀/神野志隆光 1997」を利用。
この本は、漢字だけの文、書下ろし文、翻訳現代文が併載されていて便利。入手してもよかったが、一寸した考えがあって止めた。

と言うのは、この手のテキストで、註を交えて読む方法は避けたいと考えるようになったから。

まず、一番気になるのが、本文の漢字である。本によってマチマチ。「音」を表記しただけだから、そんなことは小さなことと言えなくもないが、それならわざわざ異なる文字に変える必然性はなかろう。従って、なんらかの情報を伝えようと工夫されている可能性は高かろう。それに、本によって、字が違うということは、写本の段階で、改訂され続けてきたということであり、なんらかの意味があったのは間違いなかろう。なにせ、漢字は表意文字なのだから。
従って、なんとなくニュアンスが伝わってきそうなテキストを読みたいとなる訳。
古文の素養にさえ欠けるド素人にとっては、高望みなのはわかってはいるものの、ココがえらく気になるのだ。

例えば、現代なら「彦」だけで十分だが、これを「日子」としたり、「毘古」になったり、はたまた形容がついたりと、芸が細かい。たったこれだけでも、眺める方にしてみれば、なんとなく感じるところがあるから不思議である。

従って、できれば、原本と思しきタイプのものを眺めたくなる。「読みこもう」とは、露も思ってもいないが、感覚的に触れたい訳で、それに適した本があろうと言うこと。
まあ、少なくとも余計な親切無き、できる限り簡素なものが嬉しい。ただ、生の漢文は素人には荷が重すぎるから、書き下し文。それに、気軽に目を通せるという点で、持ち運べる文庫サイズが有り難い。

そんな観点では、活字フォントが古くてえらく見にくいという欠点は抱えるが、旧版の岩波文庫 (1951年) がよさげ。さっそく購入しようと思い立ったのだが、これが結構なお値段で、7,000円とくる。入手難なのだろう。流石に、このお値段では買う気になれぬ。復刻版もあるが、文庫サイズでないのがどうも今一歩。それでも5,000円だ。
現行の岩波文庫版は1,000円弱なので余りの違い。しかし、廉価でも、こちらには触手が伸びないのだ。
はてさて、どうするか。コリャ、こまったゾ。

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