太安万侶的歴史観の影響力 日本の「通史」とはこんな時代区分では。 → 「イマジネーションベース日本通史」作りのお勧め [2013.7.11] ─ [海] ─ [日本列島(無人)] U 岩宿のような遺跡 (先土器) 三内丸山のような遺跡 (縄文式土器) 登呂や吉野ケ里のような遺跡 (弥生式土器) 大型古墳 (埴輪/須恵器) U 飛鳥地区内裏 奈良内裏 (平城京) 山城内裏 (平安京) 鎌倉幕府 京都朝廷-吉野朝廷 (南北朝) 京都室町幕府 安土城・伏見[桃山]城 江戸城 東京千代田皇居 (明治) U 第一生命ビル (GHQ) 霞ヶ関・永田町 これで全体観が生まれるものかネと、ついつい書いてしまった訳である。大嫌いだった暗記教育への反感からだが。 どうしてここまで、覇権者の所在地にこだわるか、その理由が今の今までわからなかったが、古事記を眺めていてようやく気付いた。これは、太安万侶の歴史観そのもの。それが現代まで脈々と生きているとは知らなんだ。(尚、正式な国史たる「日本書紀」では、全く読み取れない。) と言っても、古事記は、第34代天皇以降は対象ではない。上記ではグリーンゾーンは対象外で、考古学的に土器で分類しているグレーゾーンの時代だけが対象である。・・・それこそがポイント。 → 古事記の記載が短い理由 [2014.1.14] ご存知のように、穢れを嫌うせいか、古代の天皇家には歴代遷宮制度があった。これは、第33代までは続いていたが、どうも第34代が取り止める方向性をはっきりと打ち出したようだ。「宮」から「都」への転換である。壮麗な仏教寺院と、統治機構としての内裏を配置し、条里的な街からなる半恒久的な都市空間を構築しようと決断したということ。換言すれば、「明日香」を正式に倭の都と定めたのである。従って、太安万侶は、これこそが時代を画する特徴とみなし、古事記を第33代天皇で完結としたのだと思う。 そうだとすれば、上記の通史における「飛鳥内裏時代」とは、第33代の推古天皇からではなく、第34代から。「都=京」の歴史としては、以下のようになる。太安万侶史観に従えば、こうならざるを得まい。 <飛鳥地区内裏時代>・・・初の都 【明日香京】飛鳥岡本宮[630-636],飛鳥板蓋宮[643-645][655], 飛鳥川原宮[655-656],飛鳥浄御原宮[672-694] 【難波京】難波長柄豊埼宮[645-655][661-667] 【大津京】近江大津宮[667-672] 【藤原京】[694-710] <奈良内裏時代>・・・本格的な都 【平城京】 明日香京の前は「京」は存在していない。あるのは、一代毎の宮のみ。この場合、「宮」地名がスメラミコトの公的な呼び名として通用する点がことのほか重要。・・・繰り返すが、第34代からは、「宮」地制度が廃止され、「都」がそれぞれの「天皇」とは結びつかなくなる訳である。 と言うことで、古事記下巻の第16代から第33代まで、「宮」地がどういう意味を持っていたか見ておこう。 その前に、前提として、おさえておくべきことがあるので、繰り返しになるが、中巻の位置づけを確認しておこう。 中巻は初代から第15代までだが、簡潔に言えば、大和地域に"天地(倭国)を治める"「宮」を置くことを認定させた時代ということになろう。 一般には、上巻は神話の時代で、中巻はヒトとカミの同居時代と呼ばれたりするが、「神」の概念をはっきりさせない限り、歴史観は生まれない。これは読み方としてまずい。上巻は、出自がよくわからない超人的人物と非人間神しか登場しないし、編年記述でないと指摘しているにすぎないとも言えるからだ。(編年的記述は暦法が定着しない限りできない訳で、例えば、現時点での会話で「戦後」と言っても、京都だと、応仁の乱を指していたりすることがある。従って、歴史観披瀝が目的なら、年代記述にたいした意味があろう筈がなかろう。) ざっと「宮」地を眺めればわかるが、天皇家の本貫地たる「桜井/磐余地区」にこだわっているという印象。遠征による、大和覇権確立はすでに終わっているという感じがしまいか。従って、「桜井/磐余地区」から外れているといっても、「桜井/磐余地区」から脱出しようということではなく、大規模開拓のために天皇家がリーダーシップを発揮せざるを得なかったということだと見てよかろう。難波、明日香、山城には従来型の山裾扇状地とは異なる新しい水利技術が登用されたということではなかろうか。 そのような新技術に長けた氏族が繁栄し始めた地域に「宮」が設定されたと見ることもできよう。これこそが天皇家としての伝統姿勢とは言えまいか。 初代はその名前から見て、大和地区の「磐余(伊波礼)」を本貫地としたに違いない。しかし、その宮は桜井地区とは若干離れた場所が選ばれている、橿原の畝傍だ。天皇家を支える氏族の地と見て間違いあるまい。もちろん、婚姻関係が結ばれる可能性が高い訳だが。重要なのは、そういうことではなく、天皇家以外の氏族は、それぞれ土着神を信仰しているに違いないという点。一方、天皇家は、倭のすべてに通用する普遍神を祀っているから、立場が異なり、両立することになる。祭祀場でもある「宮」地は柔軟に選択できる訳だ。 ただ、常に、本貫地回帰姿勢は明瞭だと思われる。・・・ ***第16代〜第33代の宮*** (正確性は保証できない。尚、古事記ベースではない。) <桜井/磐余地区遷宮> (第17代)磐余稚桜宮 (第20代)石上穴穂宮[・・・天理] (第21代)泊瀬朝倉宮 (第22代)磐余甕栗宮[・・・橿原] (第24代)石上広高宮[・・・天理] (第25代)泊瀬列城宮 (第26代)河内樟葉宮 (第27代)磐余玉穂宮 勾金橋宮 (第29代)磯城嶋金刺宮 (第30代)百済大井宮,訳語田幸玉宮 (第31代)磐余池辺双槻宮 (第32代)倉梯柴垣宮 <大阪や山城地区遷宮> (第16代)難波高津宮,難波祝津行宮 (第18代)丹比柴籬宮 (第26代)河内樟葉宮,山背筒城宮,山背弟国宮 <明日香地区遷宮> (第19代)遠飛鳥宮 (第23代)近飛鳥八釣宮 (第28代)檜隈廬入野宮 (第33代)豊浦宮【飛鳥川地区:明日香非中心地】 (参考にしたソース) 陸墓探訪記-宮都 http://ryobo.fromnara.com/palace.html 古事記を読んで−INDEX >>> HOME>>> (C) 2014 RandDManagement.com |