→INDEX ■■■ 「古事記」解釈 [2021.3.4] ■■■ [62] 大雀命のどの歌を重視するか "仮名序"の構成はこうなっている。・・・ ❶"やまとうた"とは ❷やまとうたの"みなもと"📖歌のみなもとは古事記 ❸うたの"ちちはは"☚ ❹"うたのさま"むつ ❺"はじめ"をおもふ ❻"かきのもとのひとまろ"と"やまのべのあかひと" ❼ちかきよに "そのな きこえたるひと" ❽なづけて"こきむわかしふ" ❾ときうつりとも うたのもじあるをや と言うことで、❸歌の"父母"を検討してみたい。 選ばれた2首は、どちらにしても、素人からすると余りにマイナーな存在に映るが、極めて簡潔に特徴が述べられているので、なんとなくわかった気分になる。・・・。 難波津の歌は、帝の御事初めなり。* 安積[あさか]山の詞は、釆女の戯れより詠みて、** この二歌は、歌の父母の様にてぞ、 手習ふ人の始めにもしける。 和歌を始めるなら、この歌から始めよ、とのご指導書でもあることが分かる。思わず、何故にこの歌なのかサッパリわからぬゾとと言いたくなるが、それが現代人のサガ。 しかし、よくしたもので、原注が挿入されていて、自動的に読む仕掛けになっているので、ホホウそうなのかと、頭が勝手に解釈。ところが、よく考えるとその意味を理解しているのではなく、単に、情緒で流し読みしているだけ。 先ず、父歌の方から。 百人一首に選ばれていないが、同等扱いされる、王仁の歌として有名である。 難波津に 咲くやこの花 冬籠り 今は春べと 咲くやこの花 「古事記」には、このような話は収載されていない。・・・ [16]大雀命の父 [15]品陀和氣命が百済国に賢人を招請し、論語十巻、千字文一巻と共に【和邇吉師】が渡来したという話が関係しているとされている。この人物が、王仁に当たると。 "仮名序"は、それはどうでもよい話で、取り上げているのは皇位継承経緯。【古註*】 大鷦鷯帝の、難波津にて皇子と聞えける時、東宮を互いに譲りて、位に着き給はで、三歳になりにければ、王仁と云ふ人の訝り思て、詠みて奉りける歌也、この花は梅の花を言ふなるべし。 大雀命と宇遅能和紀郎子が継承権を譲りあって空位が続くので、みかねた海人が大贄を貢上して決着させようとした。ところが、どちらも相手に献上するようにと渡し続けたので、どうにもならない。"海人乎 己物に因りて 而 泣く。"状態。しかし、宇遅能和紀郎子が早崩したので、大雀命が天下を治めることに。 臣下は、それをどう寿ぐか、ということになる。 御製に云々などできる訳もなく、臣下の歌で、和歌の本質を語っているのだ、と言わんばかり。 仁徳天皇と言えば、民の竈の話が定番だが、この歌の背景として、その和歌があると思ってよいだろう。もちろん「日本書紀」。・・・ 朕聞、古聖王之世、 人々誦【詠コ之音】、毎家有【康哉之歌】。 今朕臨億兆、於茲三年、頌音不聆、炊烟轉踈、・・・ 古事記は民の竈譚に重きを置いていないから、そのような発想はでてこない。 この天皇の魅力は、生々しい感情を恋歌に籠めた点にあると見ているからだ。 これこそが和歌といわんばかり。御製なので、"仮名序"では、どうのこうの語れないのである。 圧巻は、皇后を激怒させたほどの恋歌。 もちろん、それほどまでして吉備往復に拘る理由がある筈だが、その辺りは歴史観に係わる。 天皇坐高臺望瞻其K日賣之船出浮海 以歌曰 沖辺には 小舟連ららく 黒ざやの まさづ子吾妹 国へ下らす 故 太后聞是之御歌大忿 遣人於大浦追下而自步追去 於是 天皇戀其K日賣 欺太后曰 "欲見淡道嶋" 而 幸行之時坐淡道嶋 遙望歌曰 押し照るや 難波の崎よ 出で発ちて 吾が国見れば 淡島 淤能碁呂島 檳榔の 島も見ゆ 放つ島見ゆ なんだかんだで、恋しい姫のもとへ。 乃 自其嶋傳而幸行吉備國・・・ 歌曰 山県に 蒔ける青菜も 吉備人と 共にし摘めば 楽しくもあるか 天皇上幸之時 K日賣獻御歌曰 倭辺に 西風吹き上げて 雲離れ 退き坐りとも 吾忘れめや 又歌曰 倭辺に 行くは誰が夫 隠りづの 下由這へつつ 行くは誰が夫 これぞまさしく太安万侶が残したかった叙事詩そのものではあるまいか。和歌とはその骨格を担う歌謡ということになる。 「古今和歌集」収載歌とは、そんななかから一隅を切り取り、独立させて抒情的な歌として確立させようとの目論見ともいえよう。"仮名序"はその思想の塊と言ってもよいだろう。「万葉集」は歌集になってはいるものの、まだ叙事詩の息吹を残しているが、「今昔物語集」でスッキリさせたことになろうか。 叙事詩が描いていた心情を、三十一文字に昇華させてこそ和歌。だからこそ意味ありとの主張ということになろう。ここまで来ると、歌謡は必ずしも必要ではなくなる。ストーリーありきの和歌からの脱出完了である。 コペルニクス的転回が図られたと言ってもよかろう。 「今昔物語集」の三国観に接していると、これが一大結節点だったことがよくわかる。風土的に、起きるべくして起きたと言えないこともない。・・・インドの人々は今もって叙事詩の世界で生きているが、えらく理屈っぽい一面がある。抒情と情緒の社会である日本列島とは正反対だ。そして、未だに中国では、官僚統制のレッテル貼りが好まれ続けている。 続いて母歌の、"安積山"の方へ。 こちらは、「古事記」対象年代後に生まれた歌なので検討しようがないと思うと大損。父歌と組で考える必要もある。 原注は、もともと歌に付いている頭記のRecap。これ無しには、歌の意味は全く理解できないから、切り離してはいけないパート。・・・ 【古註**】 葛城の大王を陸奥へ遣わしたりけるに、国の守、事おろそかなりとて、まうけなどしたりけれど、すさまじかりければ、釆女なりける女の、盃取りて詠めるなり、これにぞ大王の心解けにける、安積山影さへ見ゆる山の井の浅くは人を思ふのもかは。 "仮名序"の著者は、これを読めば、どうして招請渡来人の王仁の歌を父に選んだか一目瞭然、と言いたいのかも。 安積山の意味がわかるように、しっかりと書いてあるからだ。もちろん、そう感じるかは、センスの問題。 【古註**】 葛城の大王を陸奥へ遣わしたりけるに、国の守、事おろそかなりとて、まうけなどしたりけれど、すさまじかりければ、釆女なりける女の、盃取りて詠めるなり、これにぞ大王の心解けにける、"安積山影さへ見ゆる山の井の浅く"は人を思ふのもかは。 「今昔物語集」でも取り上げられているところを見ると、📖歌物語もともとは土着の風俗歌だった可能性が高いが。 前置きが長過ぎたが、歌へ。シンプルそのもの。 [「万葉集」巻十六#3807<左注>]右歌傳云 葛城王(橘諸兄)遣于陸奥<國>之時國司祇承緩怠異甚 於時王意不悦 怒色顕面 雖設飲饌不肯宴樂 於是有前采女 風流娘子 左手捧觴右手持水 撃之王膝而詠此歌 尓乃王意解悦樂飲終日 安積山 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を 我が思はなくに 聖武天皇により多賀城開設祝宴に派遣@724年され、帰途に立ち寄った地での話。国司の接待にご不満だったのを、天皇付きから地元に戻った釆女が、すかさず一献で機嫌をとりもったとのストーリー。 天皇代理"巡幸"に地場感覚での盛大な御馳走を並べるだけの接待をしたのかも知れない。どのようにすると喜んで頂けるかの気遣いが全くなかったのであろう。 そのお気持ちを察した臣が、すかさず詠み奉るのが、和歌のあるべき姿と言うのが"仮名序"流。 (C) 2021 RandDManagement.com →HOME |