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■■■ 「古事記」解釈 [2021.4.15] ■■■
[104] 崇佛皇帝賛辞も記載
「古事記」は神道家にとっては経典とも言えるべきものであるから、慎重に書くことが礼儀であることは間違いない。

そういう意味では、上巻を神話の書とみなした比較研究にどれだけの意味があるか、よくわからないところがあろう。
西洋の神話とは発掘された遺跡のようなもの。これに対して、中華帝国では無惨にも、基本的には解体廃棄されてしまった。神話と称されるモノもあるが、それはほんの一部の残骸でしかない。ところが、日本の神話は現存しているどころか、現実の信仰の基底をなしている。
全く異なるものを、同一土俵で差異や類似性を議論することに本当に意味があるのか考えておく必要があろう。

しかも、日本の場合、神話がママ伝承されて来たからといって、現在の信仰と、古代の信仰がどこまで同一なのか、よくわからないところがある。

おそらく、太安万侶も、同じように悩んだと思われる。みかけ信仰対象の神は同じでも、信仰は変わっていそうだからだ。

そういうことで、「古事記」を通じて、はっきりさせたかった点の1つは、一貫して習合に前向きな社会であるということだと思う。

序では、明らかに、本邦の信仰は道教であると言っているようなものだが、その実、本文は全く道教的でないという、離れ業が可能な国であることを見せつけたのは、そんな意図があったからだと見る。

しかし、そんな見方を公然と披歴する訳にはいかないのは当たり前である。実に、よく考えて書いている。

序文には、それを示す8文字があるのだが、普通はそれを公言することはない。中華帝国道教的な信仰が深く入り込んでおりますナ調で纏められるとして、それに合わせた解釈をするのが無難なのである。ところが、ここで、太安万侶は仏教についても深い造詣ありと睨んだ瞬間にそこから全く違ったシーンが見えてくる仕掛けが施されている。

本書を奉じるということで、寿ぎ言葉が散りばめられている箇所の冒頭の一行のこと。すでに、余りに道教的ということで取り上げた箇所。📖元明天皇は武則天を目指したか
  伏惟 皇帝陛下
  得一光宅 通三亭育


もっとも、この文章を読んで、仏教のことを考える方向には行くまい。
多分"すめらみこと"と読むのであろう、天皇称号以外を使う筈がなさそうなのに、漢文とはいえ、突然にして"皇帝陛下"という用語が登場してくるという不思議な記載部分だから。
現代でも、"天皇陛下"が常用語彙であり、"皇帝陛下"を使うことなどおよそ考えられない。そのため、そこで頭が固まってしまう。

ついつい、中華帝国皇帝の玄宗のことを"天皇 恋ひ悲び給て"と書いてある「今昔物語集」のことを思い出してしまう。📖王昭君まさに正反対の称号の使い方。

こんな非常識な記述を平然と行えるというのはたいしたもの。

確固たるパトロンがいて、組織に属しながらも、周囲とは異なる自己主張を行なえる胆力がなければとてもできることではなかろう。
もちろん、下手をすれば命を失ないかねないから、荒っぽい性分に見せかけているだけで、リスクレベルを推し量れる繊細な神経の持ち主。

このことは、太安万侶は、東方朔や禰衡といった変わり者とよく似た性情だったことを示すと言っても、あながち間違いではなかろう。📖稗田阿礼称賛文は遊びかも
少なくとも、当代一の知識人との自負がなければ、こんなことを書ける訳がないからだ。

話がそれてしまったが、この一文、実は仏教賛歌そのもの。

「古事記」を献上するための奏上文に書き入れるための、今上天皇を寿ぐための不可欠な文章の頭に、中華帝国の崇佛皇帝と並び称されるべき存在と"ベタ褒め"しているに等しいからだ。

もっとも、それは自明と言うには躊躇せざるを得ないが。

「古事記」とは、そういう書なのである。大衆書とは、対極的な位置にあるからだ。その読者を、ほとんどインテリだけに絞り込んでいると言っても、ほぼ間違いないと思う。
従って、現代人にとっては極めてつらいものがある。
かなり細かな註なしには実は読めたものではないからだが、それ以上に厄介なのは現代の専門家とは細分化された分野で成果をあげた方だからだ。読者が必要なのは、狭い分野でレビューを書ける方の解説ではなく、それこそ三国風土論を書けるざっくりと広範囲な社会観を提示できる専門家の見方の方。
どの分野でも言えることだが、我々は、そういう人が育ちにくい社会に住んでいるから、素晴らしい註記に出会える可能性はかなり低いと見ておくべきだろう。
「酉陽雑俎」の註を読んでいて、それをつくづく感じさせられた。魯迅研究者の解説なのだが、そのレベルがとてつもなく高いことが、読み続けてようやくにしてわかったからである。
と言うか、原文を読むのではなく、注記を読む書だったのだ。
「古事記」も同じである可能性は限りなく高い。
筋を追うなら、文芸家の粗筋本で十分なのである。何故に、「記紀」として読むべきでないと、しつこく書いているのか、おわかり頂けるとよいのだが。

と言っても、簡単な話。

"得一光宅 通三亭育"とは、崇佛皇帝を意味しており、今上天皇(]43]元明天皇)はその皇帝と並び称されるべき存在と解釈すべきというに過ぎない。
従って、ひょっとすると、太安万侶は仏教徒だったかもしれぬと言えないこともない。

「今昔物語集」を読もうとすれば、震旦仏教についての最低知識が必要となるので、小生もどうやら少しわかった程度に過ぎぬが、崇佛皇帝が存在した国として挙げるべきは、梁と齊なのだ。
  且夫佛教東傳,世稱弘播,論其榮茂,
  勿 盛梁、齊。
   [道宣:「続高僧伝」645年 卷第十五義解篇十一 〈正紀十五 附見四〉
     …唐京師慈恩寺 釋義褒傳十五]


"光宅+亭育"とは、梁の初代 武皇帝[在位:502-549年]の話からで、"得一+通三"とは、齊の初代 文宣帝[在位:550-559年]の話から来ている。・・・

我高祖武皇帝靈聖聰明
光宅天下 劬勞兆庶
亭育萬民 如我考妣 五十所載。
  [「梁書」卷第四十五列傳第三十九王僧辯]

四象更運,九天代名。
通三以王,
得一為貞。
是應玄コ,實啟蒼精。風后之陳,師尚之兵。三奇六合,七變五成。
  [邢邵@北齊:「哀䇿文」]
(すでに書いたように、もともとの"得一"と"通三"は老子の天得一清・地得一寧・王得一貞と堯の三才を指す。"光宅"は天下の家で、"亭育"は化育の意味である。)

単に、これだけのこと。

ところが、それでおしまいではない。
この部分は鋭い指摘も兼ねているからだ。

日本への仏教渡来は百済からとされているが、単に中継に過ぎないと考えた方がよいだろう。
東シナ海外交ルート=佛教東傳を高らかに打ち出していると読めそう。
天監元年[602年@武帝蕭衍]夏四月:
  【車騎將軍】高句驪王 高雲進號車騎大將軍。
  【鎮東大將軍】百濟王 餘大進號征東大將軍。
  【鎮東大將軍】倭王 武進號征東大將軍。
[姚思廉@唐:「梁書」636年 巻第二 本紀第二武帝中]


さらに、付け加えるなら、この8文字の次に書かれている馬蹄と船頭は、新羅や百済を含んでいると読めなくもない。
  御紫宸 而 コ被馬蹄之所極
  坐玄扈 而 化照船頭之所逮

[14]帶中日子天皇/仲哀天皇が娶った息長帯比売命/神功皇后が出兵し勝利し凱旋する際に両者の名前を定めたからだ。
 故是以 新羅國者定"御馬甘"
 百濟國者定"渡屯家"

単に、陸の勢力と海の勢力という程度の話ではあるものの。

そして、道教的な国であるにもかかわらず、仏教一途で行くと打ち出した武皇帝代の梁のように、倭も大きく変わりますナと、"言挙げ"した訳だ。
時、あたかも、和銅代。銅山発見で、大仏鋳造実現が可能になり、鋳造貨幣も発行され、都は大いに沸いていたのである。

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