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■■■ 「古事記」解釈 [2021.4.28] ■■■
[117] 意外にも「創世記」に親和性
「古事記」天地初発の神のイメージは、一神教の宇宙創造主と全く異なっている。
しかし、そうとも言えないかも、と思わせる話にバッタリ。ギリシア神話でWikiを眺めていて、ついつい寄り道してしまって出くわしたのである。

もちろん、この手の話はその気になって探せば色々と見つかると思う。日本人の祖はユダヤやシュメールとの主張も少なくないのだから。
そのような主張を取り上げる気はさらさらないが、聖書の本質に触れる話だったので、書いておくことにした。

太安万侶が、倭の信仰は道教なりとの趣旨で序文を書いた意味を理解する上で参考になると考えたからである。内容の話ではなく、神学論争とはどのようなものか知っておくのも悪くなかろうと。
但し、無知を気にせず、Wikiを読んで書いているだけなので、申し訳ないが粗雑そのもので曲解だらけの可能性が高い。それでかまわぬとして書いているので、ご注意のほど。

取り上げるのは、旧約聖書「創世記」@前400-前500年の冒頭の話。解釈は色々あると聞いたことはあるが、小生は、特段考えもしたことがない。その箇所の解釈の潮目が変わって来たらしい。小生には、にわかに信じがたい話だが。
(Wiki記載通りだとすれば、キリスト教神学者の流れに変化あり。それが本当だとすれば、表に出始めるのは聖書の英西葡独仏伊の新訳出版開始だろうが、実際どうなのかはよくわからない。)

解説からすると「創世記」解釈の大転換が提起されているように思えてくるが、そんなことがはたしてあり得るのだろうか。キリスト教社会の大分裂を引き起こしかねないからである。

[「創世記」第1章]
初めに神は天と地とを創造された。
  -神は一般名 天は複数形
  -3人称の男性形の動詞 神が役割を与える意味("労働して作る"語彙ではない。)
 (その時)地は形なく、虚しく、
 闇が淵の表に在り、神の霊が水の表を被っていた。

・・・経典成立時点では、地は"自然のまま"で形がなかったという状態を表した文章と解釈されていたが、3世紀初頭には、神が無からこの世界を創造されたとの概念に変わってしまったとの説への賛同者が多くなったということらしい。情報ソース不明であり、信頼性は極めて乏しいが、この説は古くからあったそうである。
つまり、もともとは、無からの創造/絶対元始とか、歴史/時間の始まりを意味してはいなかったとの解釈。
通説とは全く異なる訳だ。「つくる」はユダヤ教・キリスト教で、「なる」はギリシアや「古事記」の神話で、他は「うむ」との丸山眞男流の見方は通用しなくなるのかも。

要するに、この箇所は、独立した記述部分と言うより、七日間に渡る話の枕というか、第一日目の導入部分と考えることになる。

言われてみれば、"虚しい"といっても、闇の海が存在しているようにも思われ、皆無からの創出と表現しているとも言い難いところがある。地の姿はそれこそ"クラゲなすような"と形容可能な状態に思え、ほとんど水のような形態ではあるが、実態ある存在。
一方、天については実体が無い形而上の世界のようにも受け取れる。

「古事記」とたいした違いは無いどころか、一番よく似た情景のようにも思えてくる。

しかしながら、この先の第一日目の印象が、「古事記」とは無縁も観念との見方を強めることになる。
❶「光あれ。」
   光=昼 闇=夜
 神はその光を見て、良しとされた。

・・・創造神そのもので、「古事記」とはかけ離れていそうに思ってしまうが、この箇所のポイントは"神の言葉ありき"と見なせば、同根と考えることもできる。神は言葉を発した以上のことはなにもしていないからだ。
「古事記」は独特な書き方で、この"御言葉"ありきをしっかりと伝えている。
単純な尊号に映るが、神の命を受けていることを示す"ミコト(=御言/御事)"を用いているからだ。📖]「記・紀」は神の概念が異なる
ただ、ここでの"光"は太陽を意味していないから、曖昧で情緒的な概念でしかなく、光こそが信仰の原点という程度の観念ということになろう。
しかし、その"御言葉"は神のご意志から発せられたものであり、なんとなくそうなったのではないから、ここで、全能の最高神の存在を告げていると見てよいだろう。

次の日は、天が、水の上下分離によってできあがるのだが、その構造は分かりにくい。
❷「水の間に大空が在って、水と水とを分けよ。」
   大空=天

・・・雨が降ってくる元の天と、地とされる海の水を分けたということだろうか。
そうなると、雨(アメ)⇒天(アメ)⇒天(アマ)原という「古事記」型の観念と同じと言えるのかもしれない。📖道教国的"天"との指摘は正しいか

天が分離した翌日に、"芽吹き"とも言える命が陸上に出現することになる。
❸「天の下の水は一つ所に集まり、
  乾いた地が現れよ。」
   乾いた地=陸 水の集まった所=海
 神は見て、良しとされた。
 「地は青草と、種を持つ草と、
  種類に従って種のある実を結ぶ果樹とを
  地の上に生えさせよ。」
 神は見て、良しとされた。

・・・生命発生の土台となる陸の誕生になるのだが、ここらは「古事記」の造化神(産巣日)や別天神(葦牙)に当たるのか、神代七代、はたまた国生みか、なんとも言い難しだ。発想が相当かけ離れていることがわかる。
国生み的には海水から陸が生まれるところから、いかにも海人信仰的だが、海面が下がって陸が見えて乾燥して大地ができるというのだから、風土的に全く異なっているのは間違いなさそう。
青草に命の息吹を感じる点では、同じだが、生命の躍動感としては葦牙と果実の種の違いがあり、環境的に相当にかけ離れた信仰であることがわかる。
しかし、生命誕生の根源を水と見抜いているという点を重視するなら、雨を呼ぶ豊雲を至高の瑞兆と見なしていそうな「古事記」と似た観念と見なすこともできよう。

4日目に太陽が生まれるが、もちろん、神ではない。
❹「天の大空に光があって昼と夜とを分け、
  徴の為、季節の為、日の為、年の為になり、
  天の大空にあって地を照らす光となれ。」
   @大空⇒大きい光:昼役(太陽)+小さい光:夜役(月)+星
 神は見て、良しとされた。

・・・3神に分掌させるのではなく、自然が神の意志に沿って、分担する仕組みを作るのであろうか。昼と夜は、すでに存在するようになっており、時刻や暦という時間概念が生まれたことを言っていることになる。

翌日、突然にして動物が登場してくる。
❺「水は生き物の群れで満ち、
  鳥は地の上、天の大空を飛べ。」
   ⇒大獣@海 群れる動物@水 翼鳥
 神は、種類にしたがって創造された。
 神は見て、良しとされた。
 「生めよ、殖えよ、海たる水に満ちよ、
  又、鳥は地に殖えよ。」(祝福)

・・・植物は大地から自然に出てくるが、動物は神自らが創出する。「古事記」は人は青草ということになるが、聖書の民から見るとあり得ない話。

もちろん、最後は人間。
❻「地は生き物を種類に従って致せ。
  家畜と、這うものと、地の獣とを
  種類に従って致せ。」
 神は・・・造られた。
 神は見て、良しとされた。
 「我々の形に、我々に象って人を造り、
  これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、
  地の全ての獣と、地の全ての這う者とを
  治めさせよう。」
 神は自分の形に人を創造された。
 即ち、神の形に創造し、男と女とに創造された。
 「生めよ、殖えよ、地に満ちよ、地を従わせよ。
  又、海の魚と、空の鳥と、
  地に動く全ての生き物とを治めよ。」
 「私は全地の表に在る種を持つ全ての草と、
  種の有る実を結ぶ全ての木とを貴方に与える。
  これは貴方の食物となるであろう。
  又、
  地の全ての獣、空の全ての鳥、地を這う全ての者、
  即ち、命あるものには、
  食物として全ての青草を与える。」
 神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。

・・・ここは「古事記」と決定的に違う点。
神を象って人間が創られたのであるから、人間像は神像でもあろうが、倭ではそんなことはあり得ない。原初の神に姿や形などなく、何処に居られるのかさえ分からないからだ。

[「創世記」第2章]
(前章で記載したように)天と地と、その万象とが完成した。
❼第七日を祝福して、これを聖別。(作業終了。休息。)
 これが天地創造の由来である。

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