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■■■ 「古事記」解釈 [2021.5.10] ■■■
[129] 倉椅山伝承譚の深層
32代 長谷部若雀命崇峻天皇の宮は倉橋柴垣宮📖。4年間統治。592年[壬子]崩御。御陵は倉椅岡上。

寺川[かつては倉椅川と呼ばれていた筈。]の谷間辺りとはわかるものの、宮も御陵も遺構の影さえなく、比定地は想像の産物でしかないが、その程度で十分だと思う。
細かなことなどどうでもよく、倉椅[久良波斯]の地名が忘れ去られていなかっただけでも奇跡的と見るからだ。どう見ても、人為的に、この名称を人々の記憶から消し去ろうとしたとしか思えず、宮やご陵も跡形無しにされた可能性を感じさせるからだ。
邪推かもしれないが、昏梯を感じさせる雰囲気が作られてしまったようにも思えてくる。本来的には暗い地の意味とは逆で、明るいに近い、道教的な栄華の嬉しさイメージの表現言葉ではないかと見るからだが。

事績記載皆無なのは勿論、冒頭のような形式的情報しかないので、これ以上、なんとも言い難いが、御陵が宮近辺というのは異常である。陵の維持管理の部民は身分的に保証されているものの、穢れに関係するせいなのか最下層とされており、宮から離れた場所になるもの。
ともあれ、特別な扱いを受けている天皇であることだけは間違いない。

この天皇は名前からみて、長谷"部"で養育されたと考えられる。それが何なんだということになるが、21代と25代の長谷の宮の天皇と同様に、三輪・巻向〜磐余〜飛鳥から一歩奥まった地に宮を造営し親政志向だったことを意味しているのではなかろうか。📖下巻収録天皇のランク
皇統史上では、政治上では臣の衆議を勘案して態度表明し、もっぱら祭祀に力を注いでいるような姿の天皇像が多いが、少数派の中華帝国の独裁型天子を目指した天皇だったのだろう。

現代の倉橋の地は、桜井の音羽山地区と呼ばれているようだ。音羽山万葉展望台の眺望説明によれば、"奈良盆地や二上山、さらには大阪の高層ビルまで眺めることが出来ます。音羽三山(音羽山[852m]・経ヶ塚山・熊ヶ岳)には登山ルートがあり、また近くには談山神社[多武峯妙楽寺]もあります。"とのこと。但し、展望の魅力と言うよりは、音羽山観音寺の【やまと尼寺精進日記】のお蔭で観光地化しているようだが。

小生的には、この地は女鳥王を連れて逃亡する速總別王[大雀命/仁徳天皇の異母弟]の歌の地という感じがする。殺されてしまった悲劇的結末と言うより、皇位簒奪でもしてみるかという姿勢をあからさまに見せたことで発生したにすぎず、二人が、けんもほろろに天皇に接する情景が描かれているのが秀逸。📖稗田阿礼の爆笑傑作
  梯立の 倉椅山を 嶮しみと 岩懸きかねて 我が手取らすも
  梯立の 倉椅山は 嶮しけど 妹と登れば 嶮しくもあらず


なかなかに楽し気な枕詞であるのも、そうした気分を高めてくれよう。おそらく、ここでの倉とは天皇だけが管理するレガリア保管場所であり、高床式なので梯子を必要とする。女官に代わりに持ってこさせようとしても、梯子など登れませんワと断られること必定。・・・というような歌があった筈である。
梯子を上るが如き山道を、倉に梯子を架けるようなものというのが、この枕詞"はしたて"が意味しているのは、明らか。追手が迫り、殺される目前にして、皇位簒奪は険しいものだったネと女鳥王に述懐している訳だ。
しかし、そんな共通体験を持つことができたことが大いに嬉しい二人なのである。

「萬葉集」の"倉椅"歌は、これを踏まえていることになろう。もちろん、そこは、まともな御陵造営もできなかったらしい天皇の遺跡の地でもある。・・・
[「萬葉集」巻七#1282](旋頭歌)柿本人麻呂歌集
はしたての 倉椅山に 立てる白雲 見まく欲り 我が為るなへに 立てる白雲
[「萬葉集」巻七#1283](旋頭歌)柿本人麻呂歌集
はしたての 倉椅川の 石の橋はも 男盛りに 我が渡りてし 石の橋はも
[「萬葉集」巻七#1284](旋頭歌)柿本人麻呂歌集
はしたての 倉椅川の 川の静菅 我が刈りて 笠にも編まぬ 川の静菅
[「萬葉集」巻三#290](間人宿祢大浦初月歌二首)
椋橋の 山を高みか 夜隠りに 出で来る月の 光乏しき
[「萬葉集」巻九#1763]沙弥女王歌一首
倉橋の 山を高みか 夜隠りに 出で来る月の 片待ちかたき

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