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■■■ 「古事記」解釈 [2021.6.6] ■■■
[156] 皇帝との呼称は舎人親王命か
「古事記」を奏上するに当たって、序文で、天皇への寿ぎの詞が記載されているが、中華帝国で用いる"皇帝"が使われており、驚かされる。

もちろん、本文では初代からすべて天皇である。にもかかわらず、序文で、今上天皇に対して使用。しかもコレは献上の際の上奏用の文章。公認されていたと訳ではなさそうだから、太安万侶が勝手に書けるとは思えない。そこらが、不思議だった。
  伏惟皇帝陛下。  (伏惟:地上で伏し上に対し陳述する表敬の辭)
📖元明天皇は武則天を目指したか

「今昔物語集」では、中華帝国皇帝に恣意的に天皇との呼称を使っていて、奇異な印象を与えるが、天皇という称号をそうそう自由に記載できる訳があるまい。揶揄していると、見なされて当然であり、天皇あるいはその後ろ盾になっている実力者が承認しているかしか考えられない。

「古事記」の皇帝呼称使用も同じことが言えるのでは。

この場合、天皇があらかじめ指示するとも思えないから、それは「日本書紀」プロジェクトの責任者たる舎人親王と違うか。後、淳仁天皇から自身が皇帝と追号されている位で、天皇を日本国皇帝と変更したがっていた可能性も感じさせるからだ。(皇位継承が男系である以上、父が天皇位になかったでは済まないから、追号するのは当然だが、天皇ではなく皇帝とすつのは異例である。)・・・
[40]天武天皇/大海人皇子 崩御:686年
└┬[41]持統天皇/鸕野讃良皇女(天智天皇皇女) 崩御:703年
○草壁皇子【岡宮天皇】 662-689年
└┬[43]元明天皇/阿閉皇女 崩御:721年
[44]元正天皇/氷高皇女 崩御:748年
[42]文武天皇/珂瑠皇子 崩御:707年
┼┼[45]聖武天皇/首皇子 崩御:756年
┼┼┼[46/48]孝謙天皇/称徳天皇 崩御:770年
└┬△尼子娘
○高市皇子 654-696年
└○長屋王 676-729年
└┬△新田部皇女(天智天皇皇女)
└○舎人親王【崇道尽敬皇帝/尽敬天皇】 676-735年
┼┼[47](淳仁天皇)/大炊王【淡路廃帝】 崩御:765年
┼┼---
┼┼□藤原不比等 没:720年
┼┼└□藤原四兄弟 没:737年
┼┼■太安万侶 没:723年

この舎人親王だが、系譜から見て、天武天皇から皇位継承されれ筈だった草壁皇子の御子達が天皇位につく流れを支えていたのは間違いないだろう。長老的地位と見てもよさそう。

さて、ここからは小生の「推理」。・・・

「古事記」序文からすると、急遽4ヶ月で仕上げたように思えるが、それは舎人親王が太安万侶に専念できるように支援したからでもあろう。
それほどに急いだ理由を考えると、舍人 稗田阿礼の体調が思わしくなかったことが考えられる。天武天皇直属の語り部であり、語り部の事実上の廃止へと方向が決まってしまったから、いわば最後の人でもある。
序文の表現からすれば、天武天皇の指示で、舎人親王(舎人部養育)も帝紀の口誦を聞かされた筈で、ピカ一の知識人たる太安万侶にそれを文書として残すように工夫するように指示した可能性があろう。

こんな話を書きたくなったのは、推理小説大家の松本清張が架空の人物であろうと断じたそうだから。[松本清張:「清張 古代史記」日本放送出版協会 1982]
性別不明、無官位、出自不詳、存在を示唆する他の記録皆無というのが理由らしい。
読んだ訳ではないのでなんとも言い難いところはあるが、思考回路が余りに違うので驚かされた。
📖稗田阿礼称賛文は遊びかも

「古事記」序文とは、時の今上天皇に献上する際の上奏文である。調べれば即時判明するような、ほぼ現在時点と見てよい人物が架空である訳がない。従って、序文は後世挿入の偽書と考えるべしとの筋に繋がるのだろう。

従って、「架空⇒偽書」という論理を展開したいのだろうが、国家的に知らしめるための作品でもなく、限定読者だけを対象として成立している書にもかかわらず、面白くするために架空の人物を登場させる必要などなかろう。それに、普通は偽書に映らぬよう工夫するものでは。

【舎人親王についての推理】
「酉陽雑俎」や「今昔物語集」は、知識人達のサロンがあってこそ成立したのではないか。インターナショナルなセンスを持ち合わせた人々が身分の枠を越えて集まり、歌/詩作に興じ、自由に幅広い話題で論議に華を咲かせる場である。「古事記」は編者2人の世界に映らないでもないが、背景には同様なサロンの存在を感じさせるものがある。太安万侶はその一員。そのサロンのパトロンこそ、舎人親王。"舍人 姓稗田 名阿禮"もサロンに呼ばれ口誦したに違いない。
そう思えてくるのは、「萬葉集」の歌があるから。・・・
<舎人親王作>
舎人皇子御歌一首[「萬葉集」巻二#117]…#118:舎人娘子の返歌
ますらをや片恋せむと嘆けども醜のますらをなほ恋ひにけり
舎人皇子御歌一首[「萬葉集」巻九#1706]
ぬばたまの夜霧は立ちぬ衣手の高屋の上にたなびくまでに
(幸行於山村之時歌二首)舎人親王應詔奉和歌一首[「萬葉集」巻二十#4294]…元正太上天皇
あしひきの山に行きけむ山人の心も知らず山人や誰れ
<柿本人麻呂作>
獻舎人皇子歌二首[「萬葉集」巻九#1683/1684]
妹が手を取りて引き攀ぢふさ手折り我がかざすべく花咲けるかも
春山は散り過ぎぬとも三輪山はいまだふふめり君待ちかてに
獻舎人皇子歌二首[「萬葉集」巻九#1704/1705]
ふさ手折り多武の山霧繁みかも細川の瀬に波の騒ける
冬こもり春へを恋ひて植ゑし木の実になる時を片待つ我れぞ
獻舎人皇子歌二首[「萬葉集」巻九#1774/1775]
たらちねの母の命の言にあらば年の緒長く頼め過ぎむや
泊瀬川夕渡り来て我妹子が家の金門に近づきにけり
<安倍子祖父作>
無心所著歌二首[「萬葉集」巻十六#3838/3839]
我妹子が額に生ふる双六のこと負の牛の鞍の上の瘡
我が背子が犢鼻にするつぶれ石の吉野の山に氷魚ぞ下がれる

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