→INDEX ■■■ 「古事記」解釈 [2021.9.12] ■■■ [254] <私的解説>秦氏隆盛の背景 (次の天皇代で、"又役秦人 作茨田堤。"とある。淀川-琵琶湖ラインで重用されたことを示している。) この辺りをどう考えるかは人によって違うが、それは王劭已[撰]:「隋書」@636年 巻八十一列傳第四十六東夷#6倭国(倭⇒俀)記載で知られる第二回遣隋使(日本国国史では初回)のとらえ方に係わってくるとも言えそう。・・・ 大業三年[607年],其王多利思比孤[≒聖徳太子]遣使朝貢。・・・ 明年,上遣文林郎裴清使於倭國。 度百濟,行至竹島[≒莞島:半島南端の島],南望𨈭羅國[耽羅=済州島] 經都斯麻國[=対馬:非寄港],迥在大海中。 又東至一支[=壱岐]國,又至竹斯[=筑紫:博多]國, 又東至秦王國[推定@周防上関], 其人同於華夏[=中華帝国],以為夷洲[日本列島〜南島],疑不能明也。 又經十餘國 [・・安芸(蒲刈)・・備後(鞆浦)・・備前(牛窓)・・播磨(室津)・・摂津(兵庫)・・難波・・:途中潮待寄港] 達於海岸。自竹斯國以東,皆附庸於倭。 日本国国史では初女帝の推古天皇代とされるが、隋書では彦名称なので男王であり、両書で齟齬が生じているのが実に面白い。(魏志倭人伝の伝聞的情報とは異なり、訪問させた外務官僚の眼と耳で判断した話が記載されている。そのため、両国の思惑の違いが透けて見える。魏の場合と違い、北九州陸路無しであり、明らかに合理的な最短コース採用。方位とルートは正確。) 当たり前だが、倭国はこの外交官僚にどの様に見せるか考えて案内している訳だし、外交官僚からすればできるだけ詳しく統治状況を調べて、影響力を駆使して属国化を図るチャンスを探るとともに、交易メリットの極大化策を考案することに注力している筈。そのような観点で、上記の記述を眺めると、ある意味当たり前な点と、奇妙な点が存在することに気付く。 筑紫が独立王国的に映るのはある意味当然で、瀬戸海は完全に倭国化されているが連合王国的なものとみられるのも、おかしなことではない。地方執権と繋がる中央貴族の合議で成り立つのが倭の朝廷の仕組みであり、科挙の官僚制度ではないのだから。 ところが、そのような地方の"王国"の一つが中華帝国の風俗に染まっているというのである。しかも、その国名たるや"秦王國"。流石に、有能な外務官僚もこれにはとまどったようで、どう判断すべきかは保留としたようだ。・・・そのような国が存在したことを示す残滓はなく、魏志倭人伝と同じような手口で、仕掛けに嵌められたと見るのが妥当なところ。しかし、流石、外交官僚だけのことはあり、秦氏の出自の胡散臭さにはすぐに気付いたようだ。 要するに、朝廷は"秦王國"を設定した訳で、それは秦氏を対中華帝国交渉の窓口にあてたことを意味しよう。秦氏にとっても、渡来人として政権に食い込めるから、そのような役割を担うのは好都合のことこの上無し。この時点で、両者に蜜月関係が生まれたと見てよいだろう。 この"胡散臭さ"だが、悪気のある見方と考えない方がよい。そこらを纏めておこう。・・・ 先ず重要なのは、秦姓の系譜が示されたと思われる点。このこと自体が、宗族信仰国家を意味する。しかし、いかに系譜を説明しようと、隋の外交官の常識からすれば、時代的に余りに離れて杉で、始皇帝の後裔である訳が無いと判断することになる。曖昧にして容認する倭国とは風土が違うからだ。 おそらく、秦王国は半島出自と見なした筈だが、当人が比定するのだからそう書く訳にいかないだけである。しかし、その報告を読めば、そう書いてあるも同然。 と言うのは、半島で用いられている姓とは、ほとんど例外が見当たらないほどに、中華帝国で使われているものの転用だからだ。高句麗・百済・新羅の始祖にしてから独自性は全く無いのである。中華帝国からすれば、それは有史の頭から属国ということになるが、半島の支配者層は早くから小中華思想であり、そのような姓であることは模倣ではなく発祥と考える体質であり、それが誇りだったと見て間違いない。半島の支配階層の風俗は全面的に華夏なのである。(独自性発揮は7世紀後半@新羅から。) さて、その秦氏だが、高句麗と新羅の領地争奪地の蔚珍"波旦"が本貫地との説もあるらしい。場所はともかく氏族的半難民と見てよさそう。 ・・・有史に於ける、半島からの渡来3波の最初にあたる訳だ。 1 秦氏(新羅[辰韓(秦韓)]等…倭の侵攻結果) 2 高句麗系(難民) 3 百済王族(亡命政権) その秦氏が主張する宗族(姓)の位置付けとは、こういう具合になる。・・・ 赢@秦朝 ├廉, 徐, 江, 秦, 趙, 黄, 梁, 馬, 葛, 谷, 繆, 鍾, 費, 瞿 趙@秦朝 ├秦@在日本氏族 趙@宋朝 │ 覺羅@満州 (小中華思想の儒教国出身であれば、始皇帝の末裔であると言いだすのは、ある意味当然の姿勢というか、そのような体質であるからそこらはいかんともしがたい。それこそ、満州や渤海もツングース系ということになれば、朝鮮族の一大国家群と見なすことになるだけのこと。) 現代の常識人でも、始皇帝の時代からの系譜が在日本の難民氏族に残っている訳もないし、それなりの系図を創作したところで、ラダーの数不足に見舞われ、始皇帝の孫の年代を考えれば、ありえない創り話になってしまう。しかし、小中華思想とはそういう性情だから致し方ない。 そのような系譜を掲げる勢力の意向を入れながら、矛盾なきよう編年体の国史プロジェクトが進んだのである。太安万侶はおそらく余りに馬鹿々々しくて議論する気にもならなかっただろう。 だからといって、太安万侶が秦氏と疎遠になったりすることはまずありえない。逆だろう。 中華帝国文化に染まっている氏族は情報源としては極めて価値が高いからだ。秦氏とは長く友好的な関係を保っていた筈である。と言っても、天武天皇が決めた八色之姓では、多臣は真人に次ぐ2番目の朝臣だが、秦連は4番目の忌寸であり、格が違う訳だが。📖太安万侶の地位情報の危うさ ただ、ランクは低いが、秦氏は見かけ大発展した筈だ。 その切欠は、この隋書の記述にあると言ってもよかろう。 「隋書」で、"秦王國"が存在したことを聞きつければ、半島渡来人は雪崩をうって秦姓への転換を決め込むことになるのは間違いないからだ。 半島で唐・朝鮮連合軍に倭軍が大敗退したのだから当然である。参戦したことが露見すれば、子々孫々まで、抹殺対象氏族とされてしまうので、中華帝国側子孫であるから参戦などはあり得ないとの理屈をつけるには最良の手段だからだ。儒教の統治システムとは、ある意味、合理主義的な賄賂で回る仕組みでもあり、宗家に貢ぐだけで自称秦氏化できる。この手を使わぬなど、およそ馬鹿げている。おそらく秦姓は渡来人最多だろう。 (C) 2021 RandDManagement.com →HOME |