→INDEX ■■■ 「古事記」解釈 [2021.9.17] ■■■ [259] "楽"文字の扱い 歌に於いては、せいぜいが、《酒樂》(≒飲酒享楽)というカテゴリー名でしか"楽"が使われていないのだ。・・・ 【[14后]神功皇后】 於是還上坐時 其御祖息長帶日賣命釀待酒以獻 爾 其御祖 御歌曰:"許能美岐波・・・" 如此歌 而 獻大御酒 爾 建内宿禰命 爲御子答 歌曰:"許能美岐袁・・・" 【此者 酒樂之歌也】 この文字、"楽"は、言うまでも無いが、六経の一つ。(詩 書 礼 楽 易 春秋)重視されてもよさそうなもの。ただ、音楽と呼ぶと、仏教的なニュアンスが漂うことになる。中華帝国では、胡楽に席巻されてしまい、それを漢民族固有の伝統と見なすことにしたせいでもあろう。《楽/樂》 …櫟に繭を懸けた象形文字だろうが、白川説では木に鈴を付けた祭礼用楽器とされている。 ≒喜悦/愉快 ≒笑(笹を両手に持った巫女の舞踊の象形だろうか。) ≒音楽(基本:楽器音曲)@仏教(実際:声楽+器楽+舞楽) ⇒[梵語訳語]心身適悦感覚("苦"の反対)@ベーダ経典 or 天楽・禅楽・涅槃楽@仏典 (当然ながら、「古事記」に"音楽"なる用語は使われていない。) 仏教伝来当初、"音楽"という用語は、ほとんど使われなかったようで、2文字化の流れで定着したのだろう。[「万葉集」1例あり。「万葉集」巻八#1594…[左注]右冬十月皇后宮之維摩講 終日供養大唐高麗等種々音樂・・・] 中華帝国編纂辞書が示す語義の通り、「古事記」での"楽"の最初の用例は、愉快な気分を示すシーン。・・・ 【天之石屋戶】 天宇受賣命 手次繋天香山之天之日影 而 爲鬘天之眞拆 而 手草結天香山之小竹葉 而 <訓小竹云佐佐> 於天之石屋戶伏汙氣 而 <此二字以音> 蹈登杼呂許志 <此五字以音> 爲神懸 而 掛出胸乳 裳緒忍垂於番登也 爾 高天原動 而 八百萬神共咲 於是天照大御神以爲怪 細開天石屋戶 而 内告者 「因吾隱坐 而 以爲天原自闇 亦葦原中國皆闇矣 何由以天宇受賣者 爲樂 亦八百萬神諸咲」 爾 天宇受賣白言 「益汝命 而 貴神坐故歡喜咲樂」 このシーンからすると、飲酒+歌唱(息/言語表現)+舞踏/#20763;(身体表現)+奏楽(特別な物の発生音)が必ずワンセットと考えられていた訳でもなさそう。歌・飲食なしで、振笹葉音と踏音だけの奏での舞踊のようだから。と言っても、式次第と行儀については細かく規定されいるから、この後に、天照大御神を囲んで大宴会が始まり、全員で"楽"を決め込むということかも知れない。もっとも、この地はあくまでも高天原であり、そこは歌謡や酒を必要としない世界のようだから、そのような習慣は葦原中国だけか。 ここで少々気になるのは、"楽"の訓読みである。 現代語では、動詞としては"たの-しむ/かな-でる"とされているが、公的には、ウタマヒとされていたようだから。 それなら文字があるのだから歌舞としそうなものだが、どういうことかはなはだわかりにくい。 さらに、「古事記」テキスト註ではアソビとされたりする。何故に"遊"を用いないのか、説明もない。大御所がそうおっしゃったのであろうか。 要するに、倭の古代概念はどのようなものかは定かでないだけでなく、訓読みに至ってはどうなっているのかほとんどわからないのであろう。こんな状況ではオレンジ・アップル議論しかできないのは自明。 ・・・議論するつもりなき素人からすれば、"たのし"という概念ありきとして読むのが妥当ということになろう。 【[16]仁コ天皇】 天皇は黒日売が恋しく、皇后を欺き、吉備国に幸行。 天皇到坐 其孃子之採菘[≒青菜]處歌曰: 山県に 蒔ける青菜[阿袁那]も 吉備人と 共にし摘めば 楽しく[多怒斯久]もあるか ところが、"樂"がもっぱら使われるのは"豊楽"として。この言葉、多分に儒教的。天子が豊かな楽を与えるという概念だからだ。 喻 周邦之民獨豐樂者 被其君コ教 [鄭玄[127-200年]:「毛詩正義」卷十六#4(「詩經」大雅(文王之什)旱麓)] 尚、一般には、豊明=豊樂であるとされているが、解説を読むと、「古義」という書に、両者は豊宴(トヨノアカリ)と同じとされているかららしい。"豊宴"はいかにも宮中宴会の総称という用語だが、明と楽は全く異なる意味の文字であり、それなりの定義があってしかるべきで、両者は峻別すべきと思う。訓読みも同じとする理由も乏しい。 《豐樂》…歲豐熟+民安樂(富饒安樂) 【[16]仁コ天皇】 自此後時 大后爲將豐樂 而 於採御綱柏 【[16]仁コ天皇】 與己妻 此時之後 將爲豐樂之時 【[16]仁コ天皇】 亦一時 天皇爲將豐樂 而 幸行日女嶋之時 於其嶋雁生卵 爾 召建内宿禰命 【[17]履中天皇】 留其山口 即 造假宮 忽爲豐樂 乃於其隼人 【[21]雄略天皇】 此三歌者 天語歌也 故於此豐樂 譽其三重婇而 給多祿也 是豐樂之日 "楽の日"は宴会開催日のようだから、"楽"だけで"宴"を意味していたようだ。そのうち、朝的の公式なものが豐樂で、それ以外にも歌舞音曲に酒が入る宴会は色々あったと目てもよさそう。そして、宴の最高潮状況を"盛楽"と呼んだのだろう。 《盛樂》…盛大的楽曲 【[22]清寧天皇】 任針間國之宰時 到其國之人民 名志自牟之新室樂 於是 盛樂 酒酣 以次第皆儛故燒火少子二口 居竈傍 令儛其少子等 爾其一少子 曰:汝兄先儛 其兄亦曰:汝弟先儛 如此相讓之時 其會人等 咲其相讓之状 爾遂兄儛訖 次弟將儛時 【小碓命@[12]景行天皇】 故 到于熊曾建之家見者 於其家邊軍圍三重作室以居 於是言動爲御室樂 設備食物 故遊行其傍 待其樂日 爾 臨其樂日 如童女之髮 梳垂 其結御髮 服其姨之御衣御裳 既成童女之姿 交立女人之中 入坐其室内 爾 熊曾建兄弟二人 見感其孃子 坐於己中 而 盛樂 そうそう、訳のわからぬというか、ストーリーはわかるのだが、ヘンテコ地名譚に"樂"が使われている。 《[地名]"相樂"》 【[11]垂仁天皇】 到山代國之相樂時 取懸樹枝而欲死 故號其地謂懸木 今云相樂(=佐加良加@「和名抄」) 懸木は"かかりき"としか読みようが無いと思うが、相樂の音とは全く合わない。しかし、用例を一つも示せないにもかかわらず、"さがりき"との読みが一般的らしい。これには唖然。 この地は、歌姫街道[木津相楽〜平城京一条大路]として知られる。壬申の乱で近江から飛鳥攻略へ向かおうと軍勢が終結したと言われている要衝でもある。太安万侶はそんなこともあって、この地名譚を収載したかったのだろう。"相樂とは、どういう意味かわかりませんが、この地には返された姫が自殺したとの伝承があり、読者自身でお考えになって下さい。"ということになろう。(素直に考えれば、懸木⇒繭懸木(櫟)⇒樂という漢字の象形話となるが。) ここらの地名問題は、現代迄続いており、どうしても相楽が重なる地名ができてしまい、両者の読みは異なってしまう。誰でも読める、ソウラクで良いではないかというお誘いにおいそれとは乗ることができぬほど思い入れがある地名であることがわかる。 (C) 2021 RandDManagement.com →HOME |