→INDEX ■■■ 「古事記」解釈 [2021.9.19] ■■■ [261] 祭祀舞踏の意味 "豊明節会"は天覧節会という位置付けらしい。新穀を供した悠紀国と主基国が、寿ぐべく芸能を奉納することになっている。そして酒宴となり、そこで行われるのが国栖奏と舞。 この舞で不可欠なのが、「古事記」に歌が収録されている久米歌。初代天皇の戦闘終了後の宴席軍歌謡である。平安期に入ると、悠紀舞とされており、歌詞無しの舞楽となり、大伴氏の弾琴とその支流の佐伯氏の刀舞という式次第が決まったようだ。[「令集解」] "豊楽"⇒"豊明"という流れを前提つれば、おそらく宮中には節会用の豊楽殿があり、それが豊明殿に改名されて、最終的には道教的に最重要な紫宸殿で挙行という変遷をたどったのだろう。 舞は芸能ではなく、天子の祭祀として不可欠と考える中華帝国の仕組みを導入したということだろう。要するに、礼楽を導入したということ。 天子の宗族信仰儀式の各として"楽"が位置付けられている訳で、それは必然的に"舞"奉納は不可欠ということにもなる。倭国には宗廟は無いので、変則的にはなるものの、基本は踏襲されている。嘗祭は秋に挙行されるが、哀しい訳ではないから、魂を招く夏の祭祀での式次第が参考になる。・・・ 天地宗廟祭祀"楽"[儒教] ↓ 礼楽@漢代 │ …廟祭楽+郊祀楽+宴饗楽 ↓ "国際的帝国"雅楽@唐代 │ …宴饗楽@唐代国家行事+胡楽+俗楽 ↓ 編成変更雅楽[=宴饗楽+燕楽(胡楽+俗楽)] 命魯公世世祀周公以"天子之禮樂" 是以魯君 孟春乘大路 載弧韣 旗十有二旒 日月之章 祀帝于郊 配以后稷 天子之禮也 季夏六月 以禘禮祀周公於大廟 牲用白牡 尊用犧象山罍 郁尊用黃目 灌用玉瓚大圭 薦用玉豆雕篹 爵用玉琖 仍雕 加以璧散璧角 俎用梡嶡 升歌《清廟》 下管《象》 朱干玉戚 冕 而 舞《大武》 皮弁素積 裼 而 舞《大夏》 《昧》東夷之樂也 《任》南蠻之樂也 納 夷蠻之樂於大廟 言廣魯於天下也 [「禮記」明堂位第十四] 【注】 升歌…宴会登堂時演奏楽歌 下管…奏管@堂下(大祭儀式) 《雲門》…黄帝@六楽(舞) 《咸池》…堯@六楽(舞) 《大韶》…舜@六楽(舞) 《大夏》…禹@六楽(舞) 《大濩》…湯@六楽(舞) 《大武》…周代武王@六楽(舞) [「周礼」春官 大司楽] 上記を眺めると、日本国での大嘗祭豊明節会の久米舞の位置付けは複雑なことがわかる。 「古事記」収録の久米歌は、直接天皇も関与するから、初代天皇統治を寿ぐ《大武》の舞に当たると考えるのが自然だが、久"目"族は入墨部族であり、大和地区のエリートからすれば"夷蠻"そのものに映るとも記載されているからだ。 これが隼人舞であれば、確実に"夷蠻之樂"ということになりそう。ただ、倭国では、皇統譜への囲い込みを旨としているので、夷蠻という扱いではないとしているのだろうが。 それにしても、「古事記」はこうした流れが想定できるように編纂されており、太安万侶の才覚には恐れ入る。 すでに示したよに、楽の初出は【天之石屋戶】。神を"楽"迎えるためのストリップ舞樂踊行為である。参集した萬神が歡喜咲楽の境地に入ってこその舞であって、上記の、国家統治のための礼楽とは本質的に異なることが、読めば一目瞭然。 さらに、その原初舞踊の行儀からすると、奏楽を付けず自らのリズム感で踊ることが基本だったこともわかる。"舞"という文字は、陵手に枝らしきものを持ち揺らしながらの身体表現の象形のようだから、まさにその原点を行くであろう。笹葉のサラサラ音が神霊を呼びよせ、桶を踏み鳴らすリズムが神を呼び起こすことになると解釈するのが自然である。(道教的祭祀になれば、リズム楽器は鼓となる。…鼓歌以儛之 [「莊子」在宥篇]) 天竺系統の踊りの場合、叙事詩信仰であるため、重要なのは登場神々に成り代わる踊りになるが、倭にはそのような風情は全く無いのも一大特徴といえよう。神に人形イメージを与えることを当初から嫌っていたということかも。道教は神像好きだが、倭は逆ということ。(渡来舞楽は、仮面劇でもあるが、これは倭の伝統とは相容れないことになる。国家存続には不可欠との大胆な転換が図られた訳だ。初出はおそらく伎楽/呉楽[仮面喜劇]@612年 via.百済人 味摩之)。 ・・・こんな風に考えてよいのかは、専門家ではないからなんとも言い難しではあるが、少なくとも、儒教的な帝国思想で眺めてしまうと「古事記」が示唆している倭の風土は読めなくなるのは間違いないと思う。 例えば、"軽太子@大前小前宿禰家 v.s. 穴穂御子の軍勢"譚では、あっけなく戦闘無しで決着するのだが、そこに舞が絡む。両者が軍事的に対峙している状況というのに、・・・ 爾 其大前小前宿禰 擧手打膝 儛かなで[訶那傳] 歌參來 問題解決のため、真剣な眼差しで交渉するどころか、両者楽し気な様子にも思えてくる。タブー破りの皇子にはこまったものですな。それを機に継承争いの内乱は宮人も里人もさらにこまりますな、というところか。おそらく、天武天皇的戦闘勝利の舞だったのであろう。 卷旌戢戈 儛詠停於都邑 📖飛鳥清原大宮天皇讃漢詩読解【4】 (C) 2021 RandDManagement.com →HOME |