→INDEX ■■■ 「古事記」解釈 [2021.10.13] ■■■ [285] 秦造の祖は渡来醸造術酒人とされる 受け取り方は人によって違うだろうが、小生は、「古事記」的創世記たる明石〜淡路島〜阿波を思わせる話に仕上がっている漢字がした。雑種民族としての自覚は播磨國発祥かも知れないという気にもなってくるほど。 しかしながら、⑮品陀和気命/大鞆和気命/応神天皇📖軽嶋明宮の行幸譚がずらりと並ぶ郡もあるというのに、「古事記」はそれを完璧に無視しているのが面白い。 揖保・讃容・託賀の3郡を見ると韓人・漢人が渡来していることがわかるが、📖「播磨國風土記」の到來人譚を重視こうした渡来者の力に頼って繁栄を目指そうというなら、当該郡為政者からすれば、⑮天皇重視姿勢を示したくなるのは自然といえよう。しかし、中央からすれば、それは播磨に限った話でもなかろう。・・・ ---「古事記」記載--- ⑮品陀和気命/大鞆和気命/応神天皇📖軽嶋明宮 【事績】 ○海部、山部、山守部、伊勢部制定 ○剣池@軽造成 ○新羅人渡来 使役(百済池@n.a.[設計名称(石造方池)]造成)…建内宿禰命担当 ○百済国主照古王献上:牡馬一匹 牝馬一匹 太刀 大鏡 馬飼 阿知吉師(祖:阿直史)渡来 ○百済の賢人招致 和邇吉師(祖:史首):論語 千字文 ○献人 韓の鍛冶 卓素 呉の織子 西素 ○醸造術酒人渡来 仁番/須須許理(祖:秦造、漢直)ら 気になるのは、"秦"氏の祖の存在。「古事記」では、以後、一ヶ所にしか登場しないものの、平安京の時代を築き上げる上で大きな力を発揮したのだから、その力の源泉となったものが見えてもよさそうと考えるからである。 ⑯大雀命/仁徳天皇@難波之高津宮 ・・・又 役秦人 この"秦"氏だが、よく知られるように、始皇帝の末裔と自称していたという。 大陸から渡来したのだから、そりゃそうだろう。 儒教国では宗族第一主義。そのため、デメリットが無い限り同一姓は同一宗族と称すのが普通だからだ。(結果、宗族内婚は禁忌となる。) 実際、唐王朝は老子と同一宗族と主張。その結果、道教を国教化せざるを得なくなったとも言えよう。"秦"氏が、祖先は秦の始皇帝とするとでっち上げたと言うより、5代程度しか記録が無ければ、無関係を示す材料が無い限り、肯定せざるを得ないだけのことだろう。 ただ、宗族観念は比較的薄そうな氏族である。 流れから見れば半島統治に派遣された前秦の人々とのように思われる。・・・ 《秦》[前3世紀] : 《前漢(武帝)》[衛氏朝鮮滅亡⇒楽浪郡+真番郡+臨屯郡+玄菟郡設置@前108/107年] 帯方郡設置@205年 : 《五胡[匈奴 鮮卑 羯 氐 羌]十六国代》 氐-前秦[351-394年]@華北…朝貢国:高句麗&新羅 羌-後秦[384-417年] 鮮卑乞伏部-西秦[385-431年] : 《隋》 大業三年 其王多利思比孤遣使朝貢・・・明年[608年] 上遣文林郎裴清使於倭國 度百濟 行至竹島 南望𨈭羅國 經都斯麻(対馬)國 迥在大海中 又東至一支國 又至竹斯國 又東至 秦王國 其人同於華夏 以為夷洲 疑不能明也(中華帝国と同等な文化人だが、夷人の国とされており、疑問。) 又經十餘國 達於海岸 自竹斯國以東 皆附庸於倭> [「隋書」@656年巻八十一列傳第四十六東夷倭國] : 《日本国》 "ハタ"@「倭名類聚抄」 ○土佐国幡多郡…波多国造(@「国造本紀」) ○大和国高市郡波多郷 ○淡路国三原郡幡多郷 ○肥後国天草郡波太郷 …建内宿禰之子波多八代宿禰者(波多臣等祖) ○出雲国飯石郡波多郷 : "秦"@「新撰姓氏録」 ○[山城国神別天神]秦忌寸…[神]饒速日命の後 …功智王弓月王:誉田天皇(応神)代来朝@腋上(大和朝-津の間) 4子のうち普洞王/浦東君:大鷦鷯天皇(仁徳)より賜姓"波陀"(訓:"秦") 大泊瀬稚武天皇(雄略)-普洞王代鳩集(92部18,670人) ○[左京]太秦公宿祢 …融通王:帯仲彦天皇(仲哀)代 来朝帰化 大鷦鷯天皇(仁徳)代 秦氏分置諸郡 [子]登呂志公の後 秦公酒:大泊瀬幼武天皇(雄略)賜号"/禹都万佐" : 《現存代表的関連神社仏閣》 ⛩松尾大社[御祭神:大山咋神] ⛩伏見稲荷大社[御祭神:宇迦之御魂大神]秦忌寸都理創建@701年 ⛩木嶋坐天照御魂神社[御祭神:5柱(天御中主命,他)] ⛩大避神社[御祭神:御祭神:大避大神=秦河勝]@赤穂市 ⛩大酒神社[御祭神:秦酒公]@京都右京 ⛩木嶋坐天照御魂神社/蚕の社 卍広隆寺/上宮王院[御祭神:聖徳太子] 卍秦楽寺@磯城田原本秦庄[聖徳太子秦河勝下賜の百済王献観音像] ⛩波多神社@高市明日香冬野 揖保郡 少宅里本名漢部里 土下中 所以号漢部者 漢人居之此村 故以為名 所以後改曰少宅者 川原若狭祖父 娶少宅秦公之女 即号其家少宅 後 若狭之孫智麻呂 任為里長由此 庚寅年 為少宅里 それにしても、出自がわかりにくい。 華北の前秦⇒新羅⇒本朝というルートが自然に映るが、酒麹法醸造の祖とする限りあり得そうにないからだ。半島は南端の僅かな部分を除けば非稲作地域であり、ハレ食はあくまでも麦であり、酒類は麦麹以外にあり得ない。米麹とは相容れないからだ。 但し、《秦》とは、午(杵)+廾(両手)+禾(穀類)であるから、醸造業一族の名称という点では妥当と言えよう。 酒については、別途眺めてみたい。 (C) 2021 RandDManagement.com →HOME |