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■■■ 「古事記」解釈 [2021.5.21] ■■■
[140] 「播磨國風土記」の到來人譚を重視
「播磨國風土記」を見ておくべきと考えるのは、新羅渡来の天之日矛の話が収載されているから。

皇位継承に直接的に係わりがある訳でもないし、東シナ海外交=政治について取り上げない方針の割には、重要譚として扱われており、その辺りの考え方の背景を知るには欠かせないと言うことで。

[14]帯中津日子天皇/仲哀天皇の段📖穴門之豊浦宮 & 筑紫訶志比は息長帯比売命/神功皇后の話が中心で、御子への皇位継承の経緯を記載することが、皇統譜上で重要だったことがわかる。そして、中巻末尾近くになって、唐突に天之日矛(新羅国主の子)が登場し、赤玉伝説が語られる。土着一族に迎えられ但馬国に居留することになる。(渡來物;玉津宝 振浪比礼 切浪比礼 振風比礼 切風比礼 奧津鏡 辺津鏡)📖「記・紀」は神の概念が異なる
ちなみに、祭祀次第は朝鮮半島〜倭迄、かなりの共通性があったようだ。どの辺りのどの様な信仰が発祥なのかは想像の域でしか議論できないが。
   [「筑前國風土記(逸文)」怡土郡] 筑前國風土記曰:【怡土郡】
 昔者、穴戸豐浦宮御宇 足仲彦天皇[仲哀]
 將討球磨噌唹、
 幸於筑紫時、怡土縣主等祖五十跡手 聞天皇幸、
 拔取五百枝賢木、立于船舳艫、
  上枝挂八尺瓊、
  中枝挂白銅鏡、
  下枝挂十握劍、
 參迎穴門引嶋 獻之
 天皇敕問:
  「阿、誰人?」
 五十跡手奏曰:
  「
高麗國意呂山 自天降來、
   日桙之苗裔五十跡手是也。」
 天皇仲哀於斯譽
 五十跡手曰:
  「恪乎!」
 五十跡手之本土 可謂恪勤國
 今謂怡土郡 訛也。


天之日矛は、名前自体に矛を含んでおり、倭と神祇祭祀上の神器/呪器の関連性が極めて高いことが特徴である。📖副葬品"矛"@墓制と「古事記」

もとはといえば、婚姻関係を反故にした阿加流比売神(赤玉@新羅国 阿具奴摩)が新羅から倭に逃げて来たこと。
[15]品陀和気命/大鞆和気命/応神天皇の頃のこと。📖鴈産卵の戯歌も収載
  新羅国
   ⇒筑紫伊波比の比売島
     (=国生みの姫島@瀬戸内海西端:周防灘と伊予灘の境)
     ⇒摂津国の島(同名で命名)  [@「摂津国風土記(逸文)」比賣島松原]
  姫嶋神社/比売碁曾社

「古事記」では、天之日矛が、祖国に逃げた妻を追って渡って来たが、渡の神が道を塞いでしまい、難波には至らず、宝器を持って但馬国に入ったとされ、それからの事績が詳しい。

伊豆志之八前大神も登場するから、太安万侶の歴史観か、天武天皇が重視したのか、理由はさだかではないが大きな影響がある事績なのだろう。(系譜的には多遅摩毛理(但馬国守護者の意味だろう。)が母系として皇統に繋がっていることになる。)📖多遅摩毛理往復先の常世国

△阿孝([新羅2]南解次次雄の長女)
└┬◎[新羅4]脫解尼師今…"賢"である渡来王(多婆那國@倭國東北)
推定↑[「三國史記」卷一新羅本紀[4]脫解尼師今(在位:57-80年:"昔"姓)]
┌┘
天之日矛 但馬国に渡来した新羅国王子 📖穴門之豊浦宮 & 筑紫訶志比宮
└┬△前津見(多遅摩俣尾の娘)@但馬国
多遅摩母呂須玖
└┬△n.a.
┼┼多遅摩斐泥
┼┼└┬△n.a.
┼┼┼多遅摩比那良岐
┼┼┼└┬△n.a.
┼┼┼┼├┬
┼┼┼┼多遅摩毛理
┼┼┼┼┼多遅摩比多訶
┼┼┼┼┼└┬△[姪]由良度美

と言うことで風土記を紐解くことになるが、播磨國しかないようだ。(「丹後國風土記(逸文)」…【奈具社】羽衣伝説、【天椅立】天橋立、【浦嶼子】浦島伝説)
眺めてみると、国内外からの到来で盛況な地であったようだ。

朝鮮半島の農業基盤は、環境条件からすると、半島南西端の狭い地域と、冷害に襲われがちの現平壌辺りを除けば、適地が少なく極めて脆弱である。従って、国家的繁栄は困難と見ていたが、全く異なる様相が見えてくる。新羅が財宝の地と言うのはあながち幻想とも言えないかも。
   [「古事記」中巻]
 其大后息長帶日賣命者 當時歸~
 故 天皇坐筑紫之訶志比宮將撃?熊曾國之時
 天皇控御琴而 建内宿禰大臣居於沙庭請~之命
 於是大后歸~ 言教覺詔者
 「西方有國
金銀爲本 目之炎耀種種珍寶多在其國 吾今歸賜其國」
   [「肥前国風土記」松浦郡]
【松浦郡】
 昔者 気長足姫尊 欲征伐
新羅行於此郡
 而進食於玉島小河之側 於茲 皇后
 勾針為鈎 飯粒為餌 裳糸為緡 登河中之石 捧鈎祝曰:
 「朕欲征伐
新羅 求彼財宝 其事成功凱旋者 細鱗之魚 呑朕鈎緡」
 既而投鈎 片時 果得其魚 皇后曰:
 「甚希見物希見謂梅豆羅志」
 因曰希見国 今訛謂松浦郡

   [「肥前国風土記」彼杵郡]
【周賀郷】
 昔者 気長足姫尊 欲征伐
新羅 行幸之時・・・
鉱物資源を活用して富を蓄積し、鉄製農器具利用と、土木用具を駆使した水利確保と開墾で技術的にはるかに進んでいたのは間違いなさそうだからだ。そうなると、日本に移住すれば、楽々と飛躍的な農業生産が可能ということになろう。特に、オープンな土地柄の播磨が好まれたのだと思われる。
もちろん、この手の技術は鉱物資源が見つかり、技術も伝播してしまえばたちどころに優位性は喪失することになるので、一過性でしかないが。

_____<但馬>__託賀___<丹波>
讃容_宍禾__神前__賀毛_美嚢__
赤穂_揖保_餝磨_印南_加古_明石__<摂津>
_______瀬戸海_______

   [「播磨國風土記」賀古郡]
【鴨波里】
 昔 大部造[
任那帰化氏族との註]等始祖古理賣 耕此之野 多種粟

   [「播磨國風土記」餝磨郡]
【漢部里】部者
 讚藝國[=讃岐]
人等 到來 居於此處
【手苅丘@伊和里】以號手苅丘者
 近國之神 到於此處
 以手苅草 以為食薦 故號手苅
 一云
人等始來之時 不識用鎌 但以手苅稻
室里】室者
 
室首寶等上祖 家大富饒 造
【巨智里】
 巨智等[
百済帰化氏族との註] 始屋居此村
【草上@巨智里】所以云草上者
 
人山村等上祖 柞巨智賀那 請此地 而 墾田之時
【新良訓@牧野里】所以號新良訓者
 昔
新羅國人 來朝之時 宿於此村
【少川里】本名私里 號私里者
 志貴嶋宮御宇欽明天皇世 私部弓束等祖田又利君鼻留[
任那国王子孫との註] 請此處而居之
【因達里】稱因達者
 息長帶比賣命 欲平
國渡坐之時

   [「播磨國風土記」揖保郡]
【伊勢野@林田里】所以名伊勢野者
 此野毎在人家 不得靜安 於是 衣縫豬手
人刀良等祖 將居此處漢
【麻打山】
 昔 但馬國人伊頭志君麻良比[
天日桙命子孫の氏族との註] 家居此山
【枚方里】所以名枚方者
 河内國茨田郡枚方里
人來到 始居此村
【佐比岡@枚方里】
 ・・・河内國茨田郡枚方里
人來至 居此山邊
【大法山@枚方里】今 所以號勝部者
 小治田河原天皇之世 遣大倭千代勝部[帰化人系部民との註]等 令墾田 即居此山邊

【大田里】所以稱大田者
 昔 吳勝 從
國度來
【神嶋@浦上里】所以稱神嶋者
 此嶋西邊 在石神 形似佛像

荷嶋@浦上里】
 
人破船 所漂之物 漂就於此嶋
【萩原里】所以名萩原者
 息長帶日賣命神功皇后
國還上之時
 一夜之間 生萩一根 高一丈許 仍名萩原
 即闢御井 故云針間井
 其處不墾 墫水溢成井 故號
清水
【少宅里】所以號部者 人居之此村(故以為名 所以後改曰少宅者)
【粒丘@揖保里】所以號粒丘者
 
天日槍命國度來
 到於宇頭川底 而乞宿處於葦原醜男命志舉乎曰:
 「汝為國主 欲得吾所宿之處。」
 醜志舉 即許海中
 爾時 客神 以劍攪海水 而宿之
 主神 即畏客神
天日槍命盛行 而先欲占國 巡上到於粒丘
 而 湌之 於此 自口落粒 故號粒丘 其丘小石皆能似粒
 又 以杖刺地 即從杖處 寒泉湧出 遂通南北 北寒南溫

【桑原里】
 ・・・一云 桑原村主[
高祖の子孫帰化人との註]等 盜讚容郡桉見桉將來
 其主認來 見於此村 故曰桉見


   [「播磨國風土記」讃容郡]
【中川里】所以名仲川者
 苫編首等遠祖 大仲子 息長帶日賣命度行於
國之時
【船引山@中川里】
 近江天智天皇之世 道守臣為此國之宰造官船於此山
 令引下 故曰船引
 此山住鵲
 一云
國烏 栖枯木之穴 春時見 夏不見

   [「播磨國風土記」宍禾郡]
【川音村@比治里】
 
天日槍命 宿於此村 敕云:「川音甚高。」
【奪谷@比治里】
 葦原志許乎命大國主 與
天日槍命 二神 相奪此谷
【高家里】所以名曰高家者
 
天日槍命告云:「此村高勝於他村。」
【伊奈加川@柏野里】
 葦原志許乎命大國主 與
天日槍命 占國之時 有嘶馬遇於此川
【波加村@石作里】
 占國之時
天日槍命先到此處
 伊和大神後到 於是 大神大恠之云:
 「非度先到之乎?」

【御方里】所以號御形者
 葦原志許乎命大國主 與
天日槍命 到於K土志爾嵩 各以K葛三條 著足投之
 爾時,葦原志許乎命之K葛 一條落但馬氣多郡 一條落夜夫郡 一條落此村 故曰三條
 
天日槍命之K葛 皆落於但馬國 故占但馬伊都志地而在之
 一云 大神為形見植御杖於此村


   [「播磨國風土記」神前郡]
【粳岡@多駝里】
 粳岡者 伊和大神 與
天日桙命 二神各發軍相戰
 爾時 大神之軍 集而舂稻之 其粳聚為丘
 其簸置粳云墓
 又云 城牟禮山
 一云 掘城處者 品太應神天皇御俗參度來百濟人等
 隨其俗造城居之
 其孫等 川邊里 三家人 夜代等


風土記を眺めたついでに書いておくと、息長帶日賣命は辛国[=新羅]息長大姫大目命とされている可能性もある。・・・
   [「豊前國風土記(逸文)」]
【鹿春郷】 豊前國風土記曰
 田河郡鹿春郷・・・
 昔者
新羅国神 自度到来 住此河原
 便即 名日"鹿春神"
 又 郷北有峯 頂有沼 黄楊樹生 兼 有龍骨
 第二峯有銅 幷 有黄楊龍骨等
 第三峯有龍骨

辛国息長大姫大目命神社/香春神社@田川郡+忍骨神社+豊比盗_社/古宮八幡宮
   …宇佐神宮の三座と並ぶ扱い。祭祀器銅鏡鋳造の地なのかも。


(source) 秋本吉郎[校注]「風土記」岩波書店(日本古典文学大系)1958年 ママではありません。

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