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■■■ 「古事記」解釈 [2021.10.14] ■■■
[286] 「播磨国風土記」は参考になる[続々]
🍶「播磨国風土記」には特徴的な"酒"が記載されており、郡毎に好き好きに取り上げているように見えるが、全体の編成上重要なポイントとして指示されていたようにも思えるほど。
「古事記」の⑮品陀和気命/大鞆和気命/応神天皇段で醸造術酒人(仁番/須須許理)渡来をハイライト的に取り上げている嗜好と繋がっているのかもと思ってしまうほど。📖秦造の祖は渡来醸造術酒人とされる酒の役割の記述を重視しているという点では両者の姿勢はよく似ている。
そう思ってしまうのは、他の風土記の酒の扱いが余りに違うからでもある。

ということで、ザツと見ておこう。・・・
  ---「出雲國風土記」記載---
○楯縫郡佐香郷
佐香河内 百八十神等集坐 御厨立給而 令醸酒給之 即百八十日 喜燕解散坐 故云佐香
…エッ、これしか酒の話が無いの!「古事記」須佐之男命 v.s. 高志之八俣遠呂はどうしたの。

  ---「常陸國風土記」記載---
○香島郡鹿島神宮
年別四月十日 設祭"潅酒" 卜氏種属 男女集会
積日 累夜 飲楽歌舞 其唱云:
「神の御酒を 飲げち、・・・」

○久慈郡山田里
唱筑波之雅曲 飲久慈之"味酒"
○久慈郡密筑里大井
村中浄泉 俗謂大井 夏冷冬温 湧流成川
夏暑之時 遠迩郷里
酒肴齎賚 男女会集 休遊飲楽
  ---「常陸国風土記(逸文)」記載---
別有鳥名尾長 亦號酒鳥
…酒はもっぱら男女集会(歌垣)用らしい。どれも、実に楽し気で儒教的統制文化とは真逆。歌舞を伴い酒を嗜む大宴会がコミュニティの一体化を図る上で鍵を握っていたのだろう。もちろん、現代でも、公序良俗に沿った形で小規模なら十分通用する風習だが、消えつつあるのは間違いない。古代から連綿と受け継がれてきた欠かせない儀式だったのだが。・・・
其會同坐起 父子男女無別 人性嗜酒 ["魏志倭人伝"「魏書」巻三十烏丸鮮卑東夷伝倭人]

  ---「肥前國風土記」記載---
○酒殿泉姫社郷
同天皇 自高羅行宮還幸而 在酒殿泉之辺於茲 薦膳之時 御具甲鎧 光明異常 仍令占問
卜部殖坂 奏云:
「此地有神 甚願御鎧」
天皇宣:
「実有然者 奉納神社 可為永世之財」
因号永世社 後人改曰長岡社 其鎧貫緒悉爛絶 但胄并甲板 今猶在也
酒殿泉在郡東 此泉之 季秋九月 始変白色 味酸気臭 不能喫飲
孟春正月 反而清冷 人始飲喫
因曰
酒井泉 後人改曰酒殿泉姫社郷
…酒の質は水にありという話か。酒自体の役割は自明なのだ。
尚、逸文もある。
  ---「肥前國風土記(逸文)」記載---
○杵島山
郷閻の士女 酒を提へ(提酒) 琴を抱きて
歳毎の春と秋に手を携へて登り望け
樂飲み歌ひ舞ひて曲尽きて帰る

歌垣の山である。(常陸筑波山 摂津歌垣山と同様)

  ---「肥後國風土記」記載---
○大分郡
酒水在郡西 此水之源 出郡西柏野之磐中 指南下流 其色如水 味小酸焉 用療痂癬謂胖太気
○海部郡
佐尉郷在郡東 此郷旧名酒井 今謂佐尉郷者 訛也


醸造に関して書くのは故ありである。
製造方法を語っている逸文が存在するからだ。実に貴重な情報で、このお蔭で、醸造術酒人(仁番/須須許理)渡来以前 v.s. 以後の意味がよくわかる。重要な役割を担っていた"酒"が、美味しく安定して供給できるようになった訳で、巫女が蒸米を噛んで糖化させてからアルコール発酵させるという醸造失敗多き方法が駆逐されていった訳だ。
太安万侶は、このことで、醸造技術を有する渡来人が地域の地場勢力に請われることになり、一気に全国に人的に拡散したと見たのであろう。
  ---「大隅國風土記(逸文@「塵袋」)」記載--- 口嚼嚼酒
大隅ノ国ニハ、一家ニ水ト米トヲマウケテ、村ニツゲメグラセバ、
男女一所ニアツマリテ、米ヲカミテ、
サカブネ(酒船)ニ ハキイレテ、
チリヂリニカへリヌ、
酒ノ香ノ イデクルトキ、又アツマリテ、
カミテ ハキイレシモノドモ、コレヲノム
名ヅケテ"
クチカミノ酒(口噛酒)"ト云フト云々
風土記二見エタリ


ちなみに他の逸文も当たると、こんなところ。・・・
  ---「山背国風土記(逸文)」記載---
可茂社(賀茂社)・・・
玉依日賣 於石川P見小川 川遊為時 丹塗矢 自川上流下
乃取插置床邊 遂孕生男子
至成人時【下鴨神社 賀茂御祖神社@京都左京下鴨泉川】外祖父建角身命 造八尋屋 豎八戸扉
釀"
八腹酒"而神集集而七日七夜樂遊 然與子語言:
「汝父將思人 令飲此

 即舉
酒坏 向天為祭 分穿屋甍而升於
 乃因外祖父之名 號可茂別雷命 所謂丹塗矢者 乙訓郡社坐 火雷命在」

丹塗矢譚である。
  ---「丹後國風土記(逸文)」記載---
<比治真奈井 奈具社>爰天女 善く為釀せり酒 飲一坏 吉く萬病除
比沼麻奈為神社@丹波比治山
  ---「土左國風土記(逸文)」記載---
神河 訓三輪河 源出北山之中 屆いたる于伊豫國 水清 故為大神釀す酒
<三輪河/神河⇒贄殿川⇒仁淀川>ということのようだ。

さて、長くなったが、ここで肝心な播磨。酒の記載数が全く違うのである。・・・
  ---「播磨國風土記」記載---
○賀古郡高宮村
是時 造"酒殿"之処 即号酒屋
○印南郡藝里
本名瓶落 土中上 所以号瓶落者 難波高津御宮天皇御世私部弓取等遠祖他田熊千 瓶酒着於馬尻 求行家地 其瓶落於此村 故曰瓶落
○賀古郡酒山
大帯日子天皇御世 酒泉涌出 故曰酒山 百姓飲者 即酔相闘相乱 故令埋塞 後庚午年 有人堀出 于今猶有酒気
○揖保郡意此川
令祷 于時 作屋形於屋形田 作酒屋於佐々山 而祭之 宴遊甚楽
○揖保郡酒井野
右 所以称酒井者 品太天皇之世 造宮於大宅里 闢井此野 造立"酒殿" 故号酒井
○揖保郡萩原里
墫水溢成井 故号韓清水 其水朝汲 不出朝 爾造"酒殿" 故云酒田
○讃容郡弥加都岐原
難波高津宮天皇之世 伯耆加具漏 因幡邑由胡二人 大驕无節 以"清酒"洗手足 於是 朝庭 以為過度
○宍禾郡庭音村
本名庭酒 大神御糧 沾而生䊈 即令醸酒 以献"庭酒"而宴之 故曰庭酒村 今人云庭音村
○宍禾郡安師里
本名加里 土中上 大神 飡於此処 故曰須加 後号山守里
○宍禾郡伊和村
本名神酒 大神 醸酒此村 故曰"神酒"村 又云於和村 大神 国作訖以後云 於和 等於我美岐
○託賀郡荒田
所以号荒田者 此処在神 名道主日女命 无父而生児 為之醸"盟酒" 作田七町 七日七夜之間 稲成熟竟 乃醸酒集諸神 遣其子捧 而令養之
○託賀郡下鴨里
有碓居谷箕谷酒屋谷 昔 大汝命 造碓稲舂之処 者 号碓居谷 箕置之処者 号箕谷 造酒屋之処者 号酒屋

基本語彙が網羅的に使われているのは驚きである。
  酒気-酒泉-酒井-酒殿-酒屋 酒田
  醸酒-清酒-庭酒-盟酒-神酒

尚、「常陸國風土記」的な男女会集は「播磨國風土記(逸文)」に歌垣山@雄伴郡波比具利岡西の記載がある。

「古事記」の"酒"も「播磨國風土記」と同じ様に様々だが、かなり意図的な取捨選択が行われていることがわかる。
さらに、天皇の祭祀での酒関連の行儀に関係する用語が使われている。"酒樂"の宴の描写に力が入っているからだが。
国家としての統一感を生み出す上で、公的な酒宴が果たす役割が極めて大きいとの見立てであろう。

  [建速須佐之男命] 高天原狼藉騒動
(天照大御~)告
屎の如きは
[ゑ]ひて吐き散らすとこそ
  [建速須佐之男命] 高志之八俣遠呂退治
告其足名椎手名椎神:
「汝等
釀八鹽折之酒 且作廻垣 於其垣作八門
 毎門結八佐受岐 毎其佐受岐置
酒船
 毎船盛其
八鹽折酒而待」
故隨告而 如此設備待之時
其八俣遠呂智 信如言來 乃 毎船垂入己頭 飮其

於是
飮醉 留伏寢 爾 速須佐之男命 拔其所御佩之十拳劔
  [大国主命]
爾 其后 取大御酒坏 立依指擧 而 歌曰:
「八千矛の 神の命や 吾が大国主・・・
 真玉手玉手 差し枕き 股長に 寝を為寝させ
豊御酒[登與美岐] 奉らせ」
現代小説のパターンであれば、ココは酔った須勢理毘売が沼河比売を嫉妬して大国主に絡んでいるシーンである。
  [天若日子]
喪主は誰になるのか判然としないが、酒食歌舞が行われたとは記載されていない。
  [建御雷神@多藝志之小濱 天之御舍]
国譲饗宴では酒はどうしたのだろうか。
  
どういうことか、勝戦の宴があるものの酒には言及していない。
  
作輕之酒折池也
地名であり、単なる坂を呼び変えてみただけかもしれない。尚、大物主譚が取り上げられているなら、現存神社の祭祀からすれば酒について触れざるを得ないと思うが、それを避けている。大国主命同様に酒が特徴の神では無いと見なしたのだろう。しかし、この時代酒がなかった訳ではない、と。
  
且以
酒腐御衣
酒を腐らせれば酢になるだけだが、そのような処理を衣に施してどのような意味があるのか、はなはだ疑問だが、文脈からすれば、衣らしき形は整っているが引っ張れば切れ切れになるということなのだろう。なんらかの寓意があるのかも。
  
[皇子]神櫛王者〈木國之酒部阿比古 宇陀酒部之祖〉
各国に酒醸造専門職が設置されていたことになろう。
  [倭建命]
其國越出 甲斐 坐酒折宮之時
  [倭建命]
於是獻大御食之時 其美夜受比賣捧大御酒盞以獻
  [息長帶日賣命/⑮母]
於是還上坐時 其御祖息長帶日賣命 釀待酒以獻
爾其御祖御歌曰:
「この
御酒[美岐]は 我が御酒ならず
 
の司[久志能加美] 常世に坐す 石立たす 少名御神の
 神祝き 祝き狂ほし
 豊祝き祝き廻し
 奉り来し
御酒
 あさず飲せ ささ」
如此歌而 獻
大御酒 爾 建内宿禰命 爲御子答歌曰:
「この
神酒を醸(噛)みけむ人は その鼓 臼に立てて
 歌ひつつ 醸(噛)みけれかも
 舞ひつつ 醸(噛)みけれかも
 この
神酒の あやに歌愉し ささ」
此者
酒樂之歌也 📖石立たす少御神と酒宴
  品陀和気命/大鞆和気命=品太天皇 
(命)令取大御酒盞 而 獻 於是天皇 任令取其大御酒盞
御歌曰・・・

  
於髮長比賣令握大御酒柏
  
又 於吉野之白檮上 作横臼 而 於其横臼 釀大御酒
獻其
釀大御酒之時 撃口鼓爲伎 而 歌曰・・・
  
及知釀酒人 名仁番 亦名須須許理等 參渡來也 故是須須許理
釀大御酒以獻 於是天皇 宇羅宜是所獻之大御酒 而 御歌曰:
「須須許理が 醸みし
御酒に 我にけり
 
事無酒 笑酒ひにけり」
  
故諺曰堅石避醉人
  
量身高而釀甕酒
  
故意富富杼王者
<三國君 波多君 息長君
酒田酒人君 山道君 筑紫之末多君 布勢君等之祖也>
  《髮長比賣求婚譚御製》
所賜狀者 天皇聞看豐明之日
於髮長比賣令握
大御酒柏 賜其太子
  
於是大后石之日賣命 自取大御酒柏
  
於是大后石之日賣命 自取大
御酒柏賜諸氏氏之女等
爾 大后 見知其玉釧 不賜
御酒柏
御酒を受ける杯は、神聖な儀式では柏が用いられたのだろう。
  
本坐難波宮之時 坐大嘗而爲豐明之時 於
大御酒宇良宜而
  
隼人歡喜 以爲遂志
爾詔其隼人:「今日與大臣 飮同
盞酒
共飮之時 隱面大鋺 盛其
進酒
於是王子先飮 隼人後飮 故其隼人飮時・・・

  
[皇女]酒見郎女
播磨国賀茂郡酒見郷ということか。
  
又天皇坐長谷之百枝槻下
爲豐樂之時
伊勢國之三重婇指擧
大御盞以獻
爾其百枝槻葉落浮於
大御盞 其婇不知落葉浮於盞 猶獻大御酒
  
卽 天皇歌曰:
「百磯城の・・・今日もかも
酒みづくらし
 高光る 日の宮人 事の 語り事も 此をば」
 :
故於此豐樂 譽其三重婇 而 給多祿也
是豐樂之日 亦春日之袁杼比賣 獻
大御酒之時
  
到其國之人民名志自牟之新室樂 於是 盛樂 
酒酣

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