→INDEX ■■■ 「古事記」解釈 [2021.10.17] ■■■ [289] [私説]宗像3神の解釈 📖インターナショナル視点での宗像3海神 📖胸形三前大~の地位の高さ ただ、どうしてもオブラートに包んだような書き方になるので、もう一歩踏み込んで書いておこうと思う。 それは、宇佐神宮二之御殿のこと。社伝によれば、この御殿造営は天平5年だから、「古事記」には登場しなくて当たり前。 御祭神は比売大神とされており、一の応神天皇とされる八幡大神と、三の神功皇后とは違って固有の神名ではないが、由緒書きがあるらしい。筑紫 宇佐島に天降ったスサノヲの剣を物実とした"三柱の比売大神"ということらしく、そうなれば、誰が考えても宗像3女神以外に考えられまい。 にもかかわらず、この神の出自には諸説あるそうだ。(神奈備山女神 玉依姫 豊玉姫 豊玉姫 仲姫命 弟姫命 応神天皇皇女 姉君 等々)・・・極めて有名で、重要視され、津々浦々迄招請されて造営されている八幡神社の大元であり、伝承が存在しているにもかかわらず、神社統括状況でその内容は変わってきていると見られていることを意味していることになろう。 それを踏まえて、宗像3女神を考えてみたい。 「古事記」では、以下のように記載されている。・・・ 於吹棄氣吹之狹霧所成~ 御名 多紀理毘賣命 亦御名謂 奧津嶋比賣命 <多>:接頭語 <紀理>=霧 次 市寸嶋比賣命 亦御名謂 狹依毘賣命 <市寸>=斎く[心身を清めて神に仕える] <嶋>=島 次 多岐都比賣命 <多岐>=滝[急流の瀬] <都>=ッ[助詞] 故 其先所生之~ 多紀理毘賣命者 坐胸形之奧津宮 次 市寸嶋比賣命者 坐胸形之中津宮 次 田寸津比賣命者 坐胸形之邊津宮 此三柱~者 胸形君等之以 伊都久三前大~者 也 <胸形>=文身 見てわかる通り、現存する《宗像大社》の御祭神と「古事記」記述は一致していない。文字表記の違いというレベルではない。 この様な齟齬が生じるということは、里宮⇒磐座遥拝山麓宮⇒奥宮(山頂辺り)という3宮構造ではないと考えるべきだろう。(山登り好きなら自明だが、峯が1つとは限らないし、1つでも方角上、山麓宮は複数になる。その宮へは複数の里から参道が存在していることになる。場所が 異なる里宮大里宮への集約は、儒教的な王権による神権の支配の過程以外の何者でもなかろう。)・・・ 田心姫神@沖津宮[沖ノ島] 市杵島姫神@辺津宮[宗像田島] 湍津姫神@中津宮[筑前大島] 小生は「古事記」の判断が優れていると見る。 すでに述べたように、宗像神とは並列3神(三柱神Triple Deity)と考えるからである。 ⓿【響灘島嶼(水深100m迄の大陸棚域)】…鯖・鰯の漁撈と栽培農業兼業 ⛩胸形之中津宮(御祭神:市寸嶋比賣命) ❶【対馬海流 陸側北東流系】…越(翡翠)〜出雲〜沖ノ島〜対馬〜勒島(朝鮮) ⛩胸形之奥津宮@沖ノ島(御祭神:多紀理毘賣命) ❷【対馬海峡横断系】 …末盧國〜壱岐〜対馬〜勒島(朝鮮) :もともとの定期的交易ルート …宗像(筑紫)〜大島〜小呂島〜対馬[南〜北]〜勒島(朝鮮) …⓿【出雲〜沖ノ島〜[北]対馬】〜勒島(朝鮮) ⛩胸形之中津宮@大島(御祭神:市寸嶋比賣命) ⛩胸形之辺津宮(御祭神:田寸津比賣命) ❸【北西部九州沿海】…追い込み鯨漁の浜民文化域からの広がり ⛩胸形之辺津宮(御祭神:田寸津比賣命) 沖ノ島の御祭神は多紀理毘賣命。大国主命と婚姻関係を結ぶという点で、日本海側の海路の神である。 「古事記」や「播磨國風土記」の記載にしても、大国主神との婚姻はあくまでも奥津宮比賣でしかない。 ○大国主神 └┬△多紀理毘賣@宗像 奥津宮 ○伊和大神/大汝神(大穴持命/葦原志許乎命)@穴禾郡石作里 │ └┬△宗像 奥津島比売命@託賀郡黒田里 大島の御祭神は市寸嶋比賣命。大陸棚の沿海漁業民の拠点島の神である。安芸の厳島の神同様の命名と見るとよかろう。 九州本島側の湊の御祭神は田寸津比賣命。沿岸・河川の神である。 現代で言えば、3神を纏める大社は物理的建造物からすれば九州本島に建造されて当然で、そうなると沖の島が禁足地的な奥宮とされ、大島には遥拝殿設置となろう。この構造であれば、本島に、"厳く"祭祀を行っている"島"の御祭神を勧請するのが自然であろう。市杵島姫神が宗像田島で祀られることになろう。 この考え方を敷衍すると、宇佐神宮二之御殿の比売大神とは、田寸津比賣命となろう。おそらく、宗像以東の北九州にはかなり祀られている筈である。 さらに、想像を働かせれば、胸形之邊津宮は現在の宗像大社の位置とは異なる可能性が高い。(純沿岸漁業では、鯨漁以外、食品エネルギー的に生活が成り立たたないから、海辺の湊で宮が成立するということは、小国家的な仕組みができあがっていることを意味しよう。)そもそも、地形自体が今とは全く異なっていたと考える必要もあるし。 もともとの宮も場所はおそらく河川の中流域。湾や河口を含め、土砂堆積が進んでいる現代の地図から、古き地勢は知る由もないが、かつてはかなりの急流の川だった筈である。 こう考えるのは、胸形全盛とは、安曇勢力が玄界灘〜日本海の確固たる地位を失ったのと同義と見なさざるを得ないからである。 安曇=海人づ霊(綿津見神の子、宇都志日金柝命の子孫)3海神は三貴神誕生の前払い的に登場しており、宗像神以前の神々。大陸との航路で考えれば、松浦や博多湾(大宰府の地となった。)は、宗像より地の利がありそうに思うが、経済力で凌駕されたのか、船材調達が難しくなったのか、はたまた造船技術(構造船)で優位性を失ったのか、さっぱりわからぬが、志賀島を"跡"にしてしまったのは確か。それは、初代天皇即位頃かも。 📖インターナショナル視点での安曇3海神 【附記】尚、神社については、長門側については、しかたなしに参考にするが、できる限り避けた方がよい。合祀や抹消が徹底しており、残存社の何たるかが推定できるとはとうてい思えないからである。 (C) 2021 RandDManagement.com →HOME |