→INDEX ■■■ 「古事記」解釈 [2021.6.18] ■■■ [168] インターナショナル視点での安曇3海神 そこに、玄界灘の奴国@志賀島の中核を担っていた海人が居住してきたとは、正直なところ、思っていなかった。よくあるいい加減な全国地名合わせ話だろうと。穂高山頂に海人がわざわざ登山するとはとうてい思えないからである。ただ、上高地に御船祭があるので不思議には思ってはいたが、天孫降臨にあやかった地名ということだろう位にしか見ていなかった。 ところが、このアズミとは博多志賀島に居住する正真正銘の海人の移住先と考えて間違いないようだ。 安曇族は、三貴神誕生の前払い的に登場しており、倭の海人の代表として扱われているのである。・・・ 此三柱綿津見~者 阿曇連等之祖~ 以伊都久~也 故阿曇連等者 其綿津見~之子 宇都志日金拆命之子孫也 摂津西成の安曇江(難波の入り江)にも拠点を構築していたようで、朝廷直属の海運や食儀式(内膳司)を担っていた。 (覊旅作)[「萬葉集」巻七#1230] ちはやぶる 鐘の岬を 過ぎぬとも 我れは忘れじ 志賀の皇神 (寄物陳思)[「萬葉集」巻十一#2742] 志賀の海 人の煙焼き立て 焼く塩の 辛き恋をも 我れはするかも この歌では、皇神という表現がなされているから、皇統譜上に位置付けられていることになるが、そうなると、禊で生まれた神々は三貴神と同じく御子の列に並ぶ、特別扱いの神ということになる。 ただ、宇都志日金拆命との名称からすると、海人系とは思えない。早くから、海辺生業生活から転身を図ったことを意味していそう。 しかし、そこまで重要な氏族にしては、安曇野以外では耳にしないのが不思議な感じである。 と言っても、安曇族移住地は数々あげられている。 ところが、その根拠がわからない地が少なくないのだ。(阿曇 安曇 厚見 厚海 渥美 阿積 泉 熱海 飽海 等々) 要するに、この氏族の特徴がつかみ切れていないということのようだ。どうして重用された海人が、高地の安曇野に移住し、その地でのみ勢力を維持し続けた理由が読み切れない訳だ。 もちろん、一般論なら、漁撈専業ではカロリー的に無理だから、農耕とセットの地に移住する訳だが、安曇野が適地とも思えないし。常識的には、漁撈地に流れ込む川の、船で行ける場所を選ぶ筈だ。農機具は木製だろうから、比較的軟い地盤の地でなければ難しい。梓川が漁撈にも適していたとも思えないから、どうして安曇野なのか理解に窮することになる。 本貫地と安曇野だけは海人を示す信仰が残っているが、例外的な地以外は上述した地名音類似という信頼性なきトレースしかできないのも、よくわからなくさせる要因となっている。はっきりそれとわかる神社は少数なのだ。しかも、名称の関連性が見えてこない。 ⛩志賀海神社@福岡志賀島 (御祭神:表津綿津見神 仲津綿津見神 底津綿津見神) ⛩風浪宮@福岡大川酒見(御祭神:表津少童命 中津少童命 底津少童命) ⛩穂高神社@信州安曇野穂高(御祭神:穂高見命 綿津見命 瓊々杵命) そのため、安曇野への移住コースも対馬海流経由と言えるのかさえ、実のところ、なんとも言い難しだ。その地を目指した理由もはたして翡翠・砂鉄・銅鉱と見てよいのかも判然としない。 状況から見て、長門[美祢 安曇] 隠岐[海部] 伯耆[会見/米子 上/下安曇] 能登半島西岸(福野潟岸)[志賀安津見]は関係ありの可能性が高いとは言えそうだとはいえ。 上越[関川安角]や出羽[鶴岡温海 飽海]の地名は古代名なのか今一歩わからない。 朝廷からは、中央に近い地への移住を要請されただろうから、奈良盆地とそこに繋がる瀬戸内地区には拠点はあろうが、太平洋側にまで移住する必要があるとも思えない。 従って、熱海や富士吉田[大/小明日見]が古代の安曇勢力の地には映らないのだが。 同様に、美濃[厚見] 三河[田原渥美]も、どの程度の信頼性か素人には判別のしようがない。 ⛩綿神社@尾張/名古屋北 元志賀[古代は海辺の地] (御祭神:玉依比売命 神功皇后 応神天皇) こうして、つらつら眺めてみると、安曇族は、独自色を打ち出さない体質だったとも言えそう。 一般解説によると、磐井の統治下にあったため玄界灘の海軍として存在していたが、磐井の乱でその立場を問われることになったことが影響しているとされる。 と言っても、安曇の地位は朝廷から認められ続けたようだから、制圧に反抗しない姿勢を示したのだろう。 この勢力は、博多湾岸地域では相当な規模を誇っていたようだから、ママ放置するのではリスクがあり過ぎとなり、朝廷は、勢力分断を図るためく、移住を図ったということでは。 当たり前だが、それは海人を名目的にして、移農耕民化させる算段でもあったとう。朝廷直属海人扱いをするのは一部に留め置いた訳である。 最初に日本語化した漢語は呉音だったようだし、と見てよさそうだし、「晋書」 「梁書」の東夷伝では"自謂太伯之後"とされており(国粋主義者大憤慨の記述)呉の始祖 周太王の長子 泰伯の系譜に連なる王朝とされているところから見て、「古事記」での最初の海人 安曇族は呉と親交が深かったのは間違いなさそう。呉王は断髪・文身という現地の習俗に合わせて王となったとされており、安曇の体質はそのようなものだったかも。 ただ、よく知られるように、河姆渡文化の流れを受け継いでいる呉越は衝突を繰り返しており、その体質は日本列島に持ち込まなかったようだ。 ---------------------------------------------- ❶冒頭。クラゲのような"原始の海"的世界に神が顕れる。 造化三神 📖インターナショナル視点での原始の海 その世界の名称は高天原。 海に囲まれた島嶼社会に根ざした観念と言ってよいだろう。 栄養豊富な海辺での水母大量発生のシーンが重なる。 天竺なら さしずめ乳海に当たる。 ❷神々の系譜が独神から対偶神に入り、 神世の最後に登場するのが倭国の創造神。 伊邪那岐命・伊邪那美命 📖インターナショナル視点での神生み 高天原の神々の意向で、矛で国造りをすることに。 矛を入れて引き上げると、 あたかも潮から塩ができるかの如く、 日本列島起源の島が出来てしまう。 島嶼居住の海人の伝承以外に考えられまい。 ❸交わりの最初に生まれた子は蛭子。 葦船に入れ流し去った。海人の葬制なのだろう。 しかし、子として認められていない。 葦と言えば、別天神で"葦牙因萌騰之物"として 唯一性情が示されるのが 宇摩志阿斯訶備比古遅神。 …いかにも河川デルタ域の神。 📖葦でなく阿斯と記載する理由 そして"国生み[=嶋神生み]"で、 日本列島の主要国土を生成する。 📖インターナショナル視点での嶋生み ❹最初の海神は、神生みで登場。 10柱第一グループの8番目。 [海神]大綿津見神 📖インターナショナル視点での海神 ❺本格的な船は神生みの最後の方になってから登場。 鳥之石楠船~/天鳥船 📖インターナショナル視点での船神 ここだけでなく、国譲りに再登場。 派遣された建御雷神はあくまでも"副"。 正は海を渡航する能力ある神。 ❽その後、黄泉国から帰った伊邪那岐命は、 穢れを払うために禊を。その最後に3貴子が誕生。 天照大御神を絶賛し、高天原統治の詔。 物実に使ってしまった筈の玉もレガリア的に。 その一方、男神には、おざなり的に海原統治の詔。 須佐之男命 📖インターナショナル視点での海原統治 ❻ところが、この3貴神誕生の直前に、海の3神2組が登場。 海神名再登場だが、安曇連祖神である。 底津綿津見神 中津綿津見神 上津綿津見神 ❼ 墨江之三前大神(住吉神) 底筒之男神 中筒之男神 上筒之男神 ❾ 伊都久三前大神(宗像神) 多紀理毘賣命(胸形之奥津宮) 市寸嶋比賣命(胸形之中津宮) 田寸津比賣命(胸形之邊津宮) ❿天孫降臨後 綿津見大神 (C) 2021 RandDManagement.com →HOME |