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■■■ 「古事記」解釈 [2021.10.31] ■■■
[303] 檜垧宮天皇御陵は継承儀式無しか
29代天国押波流岐広庭天皇/欽明天皇の檜隈坂合陵に続いて📖形状変更の合陵は非掲載か、28代建小広国押楯命/宣化天皇@檜垧廬入野宮の御陵"身狭桃花鳥坂上陵をも非記載とした理由を考えてみた。
「延喜式」で追葬が記載されている訳ではないが、こちらも合葬陵(皇后橘仲皇女)とされている。比定地は鳥屋見三才古墳@橿原鳥屋(前方後円:138m)

この頃の朝廷内の権力構造はよくわからないところがあり、どうして合葬されているのか不透明な点がある。「上宮聖徳法王帝説」によれば、26代継体天皇の年号の時に、29代欽明天皇が即位したととされているからだ。28代の御陵祭祀を29代が行った訳ではないことになろう。
そうだとすれば、御陵伝承が伝わっているとは言い難いところがある。。

しかし、27代の御陵は記載されているから、28代の継承儀式は行われたということになる。
<欽明朝 v.s. 安閑・宣化朝並立>説が生まれるのもわかる。(この見方発生のトリガーは、"天皇及び太子・皇子が共に亡くなった。"という、いかにも大規模クーデター発生を示唆する記述。@「百済本紀」)

実態はわからぬが、太安万侶の見立てとしては、29代は皇位継承としての先代葬儀を行わず、26代御陵で執り行ったということなのかも。そうなると、28代は殯宮しかなく、御陵の存在は不詳とするしかなかろう。
建小廣國押楯命は名称からしてかなり強引な印象を与えるし、その宮地も渡来人集落から形成されており、かなり特殊。29代の生育風土とは相当に違っていることが考えられ、両者の文化的対立があったのかも。📖 "檜垧"との地名表記の独自性

㉖哀本杼命(品太王五世孫@近淡海國)/継体天皇
└┬△手白髮命(㉔天皇の御子)
│㉙天國押波流岐廣庭命/欽明天皇

└┬△目子郎女(尾張連等祖 凡連の妹)
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㉗廣國押建金日命/安閑天皇
┼┼㉘建小廣國押楯命/宣化天皇

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