→INDEX ■■■ 「古事記」解釈 [2021.12.11] ■■■ [343][補足]歌垣について と言っても、歌垣自体はよく知られており、東アジアの少数民族(白族 景頗族 彝族 哈尼族 苗族 壮族 等々)の民俗である。かなり広範に残存していると見てよさそう。 そんなこともあって、大陸では、"歌垣"に対応する用語ははっきりしており、《嬥歌》。その意味は、男女が集い歌舞する自由恋愛行事とされている。中華帝国は儒教国でもあるから、当然ながら、宗族繁栄に反するこのような行為はご法度。蛮族風習と見なされることになろう。 この民俗活動は、で存続しており、フィールドワーク情報として入手できる。しかしながら、変節強要や観光地としてのイメージ発信要求から逃れているとは思えず、それがどこまで古代の息吹を伝えているのかは定かではない。 そんなこともあって、巴[四川東部]人の歌謡が発祥(「文選」魏都賦)という見方になりがち。 (文字[=女+翟/羽隹)]からして、鳥トーテム族の鳥装束皇女の跳舞姿を示しており、艶やかで美しいため、古代社会で一斉風靡したのであろう。) 一方、本邦の情報は極めて限られており、とても大陸と比較できるレベルにはない。心情的には極めて類縁性が高いが、実は、本当のところはわからないと言うべきだろう。 そもそも、冒頭で述べたように、《歌垣/"宇太我岐"》という語彙自体が意味不明なのだから。東国用語としての《"賀我比"》を《嬥歌》としているが、この語彙だと蛮族歌謡に映るから、使用を忌避したのだろうか。その辺り、気になるところだ。 ---[「万葉集」巻九#1759]--- 筑波嶺為嬥歌會日作歌一首 并短歌 鷲の住む 筑波の山の 裳羽服津の その津の上に 率ひて 娘子壮士の 行き集ひ かがふかがひに 人妻に 我も交らむ 我が妻に 人も言問へ この山を うしはく神の 昔より 禁めぬわざぞ 今日のみは めぐしもな見そ 事もとがむな <嬥歌者東俗語曰:"賀我比"> 【右件歌者高橋連蟲麻呂歌集中出】 ---[「万葉集」巻九#1760]--- 登筑波嶺為嬥歌會日作歌一首 并短歌---反歌 男神に雲立ち上りしぐれ降り濡れ通るとも我れ帰らめや 【右件歌者高橋連蟲麻呂歌集中出】 ---[「常陸国風土記」筑波郡 筑波山]--- 夫筑波岳 高秀于雲最頂 西峯崢エ 謂之雄神不令登臨 但東峯四方磐石 昇降坱圠 其側流泉 冬夏不絶 自坂已東諸国男女 春花開時 秋葉黄節 相携駢闐 飲食齎賚 騎歩登臨 遊楽栖遅 其唱曰: 「筑波峯に[都久波尼爾] 言はむと云ひし[阿波牟等伊比志] 子は誰が言と聞けばか[古波多賀己等岐気波加] 峰あすはけむ[弥尼阿須波気牟] 也 筑波峯に[都久波尼爾] 庵りて[伊保利弖] 妻なしに[都麻奈志爾] 吾が寝む[和我尼牟] 夜ろは早も[呂波波夜母] 明けねかも[阿気奴賀母] 也」 詠歌甚多 不勝載車 俗諺云: 「筑波峯之会 不得娉財 児女不為矣」 ---[「常陸国風土記」香島郡 童子女松原]--- 童子女松原 古 有年少僮子俗云加味乃乎止古加味乃乎止売 男称那賀寒田之郎子 女号海上安是之嬢子 並 形容端正 光華郷里 相聞名声 同存望念 自愛心滅 経月累日 嬥歌之会 <俗云"宇太我岐" 又云"加我毘" 也> 邂逅相遇 于時 郎子歌曰: いやぜるの[伊夜是留乃] 安是の小松に[阿是乃古麻都爾] 木綿垂でて[由布悉弖々] 吾を振り見ゆも[和乎布利弥由母] 安是小 島はも[阿是古志麻波母] 嬢子報歌曰: 潮には[宇志乎爾波] 立たむと言えど[多々牟止伊閉止] 汝夫の子が[奈西乃古何] 八十島隠り[夜蘇志麻加久理] 吾を見さ走り[和乎彌佐婆志理] 也 便欲相語 恐人知之 避自遊場 蔭松下 携手伇膝 陳懐吐憤 既釈 故恋之積疹 還起新歓之頻咲・・・ どうあれ、歌垣の核はあくまでも男女の掛け合い定型歌である。現代感覚からすれば、その様な行事に垣根が必要とは思えないから、感覚的にすっきりしないところがある。(歌という文字を使っているから、音の当て字ではないだろうと見て。) 志毘臣が即位前天皇に対して敵愾心剥き出しで、"切れむ柴垣 焼けむ柴垣"と詠っているから、垣には特別な意味があったのは間違いなさそうだが、素人にとっては、その意味を推定するのは難しい。 《上巻》 [速須佐之男命]釀八鹽折之酒 且 作廻垣 於其垣作八門 [ 〃 ] 須賀宮 "出雲八重垣"[伊豆毛夜幣賀岐] [御諸山上神] 青垣東山上 [八重事代主神] 青柴垣打成 《中巻》 [10代天皇] 師木水垣宮 [11代天皇] 師木玉垣宮 [15代天皇] …張施垣立帷幕 《下巻》 [18代天皇] 多治比柴垣宮 [歌#106〜#111]【歌垣】[23代]即位前天皇 v.s. 志毘臣 [32代天皇] 倉橋柴垣宮 筑波の"加我毘"はおそらく「古事記」成立時点ですでによく知られていたようだが、類似の男女集会は畿内〜西国でも行われていたようである。 ---[「播磨国風土記」香島郡鹿島神宮]---📖「播磨国風土記」は参考になる[続々] 年別四月十日 設祭"潅酒" 卜氏種属 男女集会 積日 累夜 飲楽歌舞 其唱云: 「神の御酒を 飲げち、・・・」 ---[「播磨国風土記」久慈郡山田里]--- 唱筑波之雅曲 飲久慈之"味酒" ---[「播磨国風土記」久慈郡密筑里大井]--- 村中浄泉 俗謂大井 夏冷冬温 湧流成川 夏暑之時 遠迩郷里 酒肴齎賚 男女会集 休遊飲楽 ---[「肥前國風土記(逸文)」]杵島]--- 杵嶋郡 縣南二里 有一孤山 從坤指艮 三峰相連 名曰杵嶋 峰 坤者曰彦神[比古] 中者曰姫神[比賣] 艮者曰御子神<一名軍神 動則兵興矣> 郷閭士女 提酒抱琴 毎歳春秋 攜手登望 樂飲歌舞 曲盡 而 歸 歌詞云: 霰降 杵嶋岳險 草取兼 妹手取 <是杵嶋曲> ---[「摂津國風土記(逸文)」]--- 攝津國風土記曰: 雄伴郡波比具利岡 此岡西有歌垣山 男女集登此上 當爲歌垣 因以爲名 (C) 2021 RandDManagement.com →HOME |