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■■■ 「古事記」解釈 [2021.12.11] ■■■
[344][補足]難波について
難波の地が、古代どの様だったかは皆目わからない、と言うと研究者に大いに失礼だが、一般人からすれば現在の大坂の姿以外に思い浮かばないから致し方ない。大雑把には推定地勢は知られてはいるとは言え。・・・
 ○難波宮は上町洪積台地の北端
 🀂瀬戸海大阪湾岸は干満差が大きいため急流発生(大阪湾⇔難波入江)
  上町洪積台地の海側崖下は沿岸砂洲伸長
(入江口へ:天満砂洲)
 🀃北東側流入の淀側のデルタが発展
  
(北側丘陵から南には千里砂堆)
 🀁南側流入の大和川のデルタが発展
 🀀入江東側は生駒山系山麓に続く緩傾斜の河内低地
今の陸地は、台地を除けばもともとはほとんどが海。海流が造る砂州と大阪湾に注ぎ込む河川の広大なデルタ地帯での沖積で、潟や嶋/洲が生まれ、近代になると、大規模な干拓へと進んだから、古代の状況は全くわからなくなっていると言ってよいだろう。ただ、時に発掘調査が行われるので、少しは見えて来るといったところ。

そんなこともあって、"難波"の由来も諸説あるらしく、不明と言わざるを得ない状況にある。・・・
  "押し照る"難波(≒迎日地:日神祭祀庭)
  浪速[なみ-はや]  魚庭[な-にわ]  波庭[なみ-にわ]

「古事記」の記載は難波の地勢については、「萬葉集」を参考にすると、朧気ながらではあるものの、なんとなく感じさせる記述になっている。どこまで当たっているかはわからないものの。・・・

┼┼[淀川]
┼┼│⚓大津
┼┼
■〓■■■■⚓日下之蓼津
┼┼ ←難波宮
■⚓難波御津
┼┼└─┐
┼┼┼┼└┐
┼┼四天王寺────── [日下直越道]
┼┼┼┼┼└─[大和川]
┼┼
住吉神社
■⚓住吉津─────── [八尾街道/磯歯津道)]
┼┼
開口神社

■⚓大伴御津───── [長尾街道/大津道]
┼┼
┼┼└────────── [竹内街道/丹比道]
「古事記」で最初に登場するのは、東遷で、敗退を余儀なくされた日下之蓼津への侵攻である。

[即位前初代]
  故其の国従上り行しし之時
  
浪速之渡を経て 而 青雲之白肩の津に泊まり
  此時 登美能那賀須泥毘古 軍を興して待ち向ひて以て戦へり
  爾 御船に入れし所之楯を取り 而 下ろし立たせたまひしが故
  其の地を號け楯津と謂ひ 於今者
日下之蓼津と云ふ也

[11]伊久米伊理毘古伊佐知命@師木玉垣宮/垂仁天皇
  【御子@鳥取の河上の宮】印色入日子命
  作血沼池 又 作狹山池 又 作
日下之高津池

[15]品陀和気命/大鞆和気命/応神天皇
 @軽嶋明宮
 @[行宮]難波大隅宮《国史「日本書紀]》大隅神社@東淀川大桐

[16]大雀命/仁徳天皇
 @難波之高津宮
  又 伇秦人作茨田堤 及 田三宅
  又 作丸邇池依網池
  又 掘
難波之堀江 而 通海
  又 掘小椅江
  又 定
墨江之津
この"難波"だが、百人一首競技の序歌で遍く知られている。
  難波津の歌は、帝の御初め也。
  大鷦鷯の帝、難波津にて皇子と聞える時、
  春宮を互ひに譲りて位に即き給はで
  三年になりにければ、
  王仁と云ふ人の訝り思ひて、
  詠みて奉りける歌なり。
  この花は梅の花を謂ふなるべし。
    
難波津に 咲くやこの花 冬ごもり
    今は春べと 咲くやこの花

   [「古今和歌集」仮名序 905年]

[17]伊邪本和氣命/履中天皇
 @伊波禮若櫻宮
 ⭙難波宮(大嘗宴後就寝中)焼き討ち(クーデター発生)
    📖下巻17代天皇所収歌3首検討

[21]大長谷若健命/雄略天皇
 @長谷朝倉宮
     …難波という名称はこの段では使われてはいないが。
   <想定行幸ルート>(初大后 坐 日下 之時) 📖白犬の魅力には勝てず
 ⇒海石榴市⇒初瀬川〜大和川〜竜田川
 ⇒平群⇒直越道⇒暗峠
 ⇒日下⇒河内湖草香江(日下江)…東征敗戦の地
 ⇒@日下の直越の道
志貴縣主神社@河内(藤井寺惣社)

[23]袁祁王之石巣別命@近飛鳥宮/顕宗天皇
└┬難波王(石木王之女)
┼┼

[29]天国押波流岐広庭天皇/欽明天皇
 @師木島大宮
 @[行宮]難波祝津宮@《国史「日本書紀]》

「古事記」は[33]代段で完。宮全焼後に成立。
---大化元年/645年
[36]孝徳天皇
 @難波長柄豊碕宮@652年[完成]
[40]天武天皇
 @難波宮@683年複都制詔→686年宮全焼
[45]聖武天皇
 @難波宮@(726年再建開始)744年-745年…3都制
---長岡京遷都784年
 廃絶@793年

「古事記」は全くふれていないが、歌集から見て、難波は遣唐使船出発港として国家的に枢要な地とされていたことは間違いない。
《難波津》
[巻五_#_896] 難波津に 御船泊てぬと 聞こえ来ば 紐解き放けて 立ち走りせむ
《難波潟 御津の崎》
[巻八_#1453] ・・・難波潟 御津の崎より 大船に・・・
《大伴の御津》
[巻一_#__63] いざ子ども 早く日本へ 大伴の 御津の浜松 待ち恋ひぬらむ
[巻五_#_894] ・・・大伴の 御津の浜びに 直泊てに・・・
[巻五_#_895] 大伴の 御津の松原 かき掃きて 我れ立ち待たむ 早帰りませ
《住吉の御津》
[巻十九#4245] そらみつ 大和の国 あをによし 奈良の都ゆ おしてる 難波に下り 住吉の 御津に船乗り 直渡り・・・
国際港であるとは、軍港としての機能も果たしていた訳で、防人の船出を詠んだ難波津歌も少なくない。
[巻二十#4330] 難波津に 装ひ装ひて 今日の日や 出でて罷らむ 見る母なしに
[巻二十#4363] 難波津に 御船下ろ据ゑ 八十楫貫き 今は漕ぎぬと 妹に告げこそ
[巻二十#4380] 難波津を 漕ぎ出て見れば 神さぶる 生駒高嶺に 雲ぞたなびく
[巻二十#4408] ・・・ 住吉の 我が統め神に 幣奉り 祈り申して 難波津に 船を浮け据ゑ・・・
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[巻六_#_977] 直越の この道にして おしてるや 難波の海と 名付けけらしも
[巻六_#1063] あり通ふ 難波の宮は 海近み 海人娘子らが 乗れる舟見ゆ
---
[巻八_#____] ・・・おし照る 難波を過ぎて うちなびく 草香の山を 夕暮に わが越え来れば・・・
---
[巻二十#4360] ・・・ 明らめたまひ 敷きませる 難波の宮は 聞こし食す・・・
[巻二十#4457] 住吉の 浜松が根の 下延へて 我が見る小野の 草な刈りそね
[巻二十#4458] にほ鳥の 息長川は 絶えぬとも 君に語らむ 言尽きめやも
[巻二十#4459] 葦刈りに 堀江漕ぐなる 楫の音は 大宮人の 皆聞くまでに
[巻三_#_238] 大宮の 内まで聞こゆ 網引すと網子 ととのふる海人 の呼び声

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