→INDEX ■■■ 「古事記」解釈 [2021.12.17] ■■■ [350]倭健英雄譚人気の背景 [土雲]八十建(無敬称)@忍坂大室 熊曾建(無敬称)@肥後球磨&大隅囎唹 出雲建(無敬称) 吉備臣建(日子) [妹]大吉備建(比賣) [太子]倭建(命)@大和 …倭男具那王[大帶日子淤斯呂和氣天皇@纒向之日代宮の御子] 若建(王)[倭建命+弟橘比賣命 御子] [天皇]大長谷若建(命)@泊瀬 上記の代表は、熊曾建と出雲建を惨殺した倭建と見てよいだろう。 何と言っても、出雲建討伐歌が秀逸。・・・ [歌24]【倭建命】出雲建討伐自賛 "やつめ"さす 出雲建が 佩る太刀 黒葛巻き さ身無しに あはれ ・・・"八布注す 厳藻猛るが"と海藻を貴んでいると揶揄。海藻の如くに身芯も無い木刀で太刀合わせかネ、と小馬鹿に。まるで海藻のような軟い者とせせら笑っていると解釈したのだが、どうか。 どの道、友の絆を約束し、あろうことかそれを使って騙し討ち。その成功の大喜びして詠んだ歌。現代感覚なら、とんでもない悪党とのレッテルが張られること間違い無し。しかし、そこまでしないと全国平定などとうてい無理と、誰も口に出さないものの、皆、そう思っているからこそ共感を生むのだと思われる。綺麗事で統治できる訳などないのだから。 しかも、この場所は由緒ある肥河とくる。上記の句が、"八雲立つ 出雲・・・"にママ被さっているのも自明。📖出雲の国名由緒が不明瞭 出雲制圧は、国譲りで全てが決着した訳では無いという、当たり前のことを、直截的に、公然と口にした初めての太子ということになろうか。そこらを直視して社会変革に踏み出そうとの決意もないのに、ただただ陰湿な皇位継承争いに血道を上げる太子連中とは違うと表明したとも言えそう。 これは、鵺的な態度の朝廷既存勢力の姿勢に批判的と云うより、反体制(中央諸勢力連合に担がれた首長による曖昧な統治制度の否定論者)のリーダーとしての言動と見た方が当たっていそう。(官僚プロジェクトである国史編纂の場合、このようなムードを醸し出させる叙述は危険極まりないから避ける筈。従って、「日本書紀」の中身は全く違う筈である。しかし、重要な箇所であるから、相当に力を入れた秀作に仕上げてあるだろう。その結果、文芸的な表現上の切れはどうしても弱くなる。) ・・・太安万侶のこうした考え方を読み取ろうとせず、初めから、父親から嫌われた悲劇的主人公の英雄譚として読めば、そうとは全く感じないだろうからここらは要注意。 要するに、登場冒頭から暴虐的な性情の皇子として描かれており、それが父君天皇の恐れを呼んだと言うのが、「古事記」の設定ということ。この怖れの内実の受け取り方で、見方が変わってしまう仕掛けがなされていることになろう。単純な話でもないのだ。・・・ 大碓命は、天皇の召した兄比売・弟比売を我がものとし、替え玉を献上。さらに、朝夕之大御食儀式は欠席。 天皇詔小碓命:「・・・專汝泥疑教覺 <泥疑二字以音下效此>・・・」 この詔の5日後 天皇:「・・・若有未誨乎」 小碓命:「既爲泥疑也」 天皇:「如何泥疑之」 小碓命:「朝署入廁之時 待捕?批 而 引闕其枝裹薦投棄」 ストーリーの鍵を握る語彙"泥疑"の意味は不詳だが、両者で意味が異なっていたため、天皇の意図に沿わぬ結末を迎えてしまったと解釈することになっている。表立って天皇への反逆行為を働く兄大碓命と、実直に天皇命を実行するもののその意向に反してしまう弟小碓命の対比が描かれていることになる。悲劇に繋がる序章と言えなくもない。だが、"泥疑"の取り違いが生んだ笑い話として設定されていると読むことも可能だ。 ともあれ、延々と"逆らっている"兄を教覺するようにと詔が発せられたのだから、暴虐的行為であろうとなかろうと、倭建は命令を実行しただけ。中華帝国なら、皇帝の機嫌を損ねる言動と見なされただけで即刻処刑。繰り返しの命無視など言語道断。上手な言い訳けを考えついて逃れる算段案出能力が不可欠な社会だ。 これに対して、倭では、反逆行為を平然と続けていても大目に見られていることになる。これを、天皇の寛容さを示すものと見なすか、天皇には反逆行為に対する"見せしめ"措置を行う力さえ無いと考えるかは、読み手によって違うことになろう。 マ、どちらにしても、倭建命は天皇命に従う姿勢を堅持している点が特筆モノ。 それなら、徹底しているかと思うと、そうでは無い。ここが肝心なところ。 次の段階では逸脱。即位が約束されている訳でもないのに、天皇然として振る舞い初めるからだ。 熊襲討伐は詔で始まっているが、出雲建抹殺命が発せられた訳ではないからだ。天皇裁可なしに、自由裁量で"成敗"したことになり、最高権力者としての行動を勝手に起こしたことになる。帰路の山陽道に棲む独自勢力完全除去も、天皇の意のもとで行われているのか、なんとも言い難いし。 こんなことが発生したら、中華帝国なら、臣下が、即刻、警言上申となる。皇位簒奪の恐れがある重大事態発生とされ、皇帝は緊急対処策を指示することになる。 要するに、倭国は、中華帝国の天子独裁-官僚統制体制とはほど遠いということが示されていることになろう。 上記の"建"と云う名前を眺めると、もともとは敵対的で、猛々しい部族長を意味する一般名ではないかという気がする。 そのような名称を太子や天皇につけるのは、明らかに異常。 思うに、それは殺害の状況からくる見方と違うか。 即位することになる、童男だった大長谷王子も、童の頃の倭建命同様に、兄を惨殺しているからだ。・・・ 石上之穴穗宮天皇は殺害した大日下王の嫡妻を皇后としたが、その連れ子に殺害されてしまう。大長谷若建命はこれに憤慨したが、兄は対処しようとしないので、兄を討ったのである。 その殺し方には、単なる皇位継承争いでの殺戮とは違う残虐性が見て取れる。それは猛々しい敵対勢力に対してはOKだが、皇族内で行うべきではないという不文律が存在していたのだろう。 しかし、そんなルールにどれだけの意味があるかは判然としていない。天皇反逆行為に対しての"見せしめ"を行うことこそが、最重要ルールならば。 大長谷若建命も倭建命も、兄殺しはこの点でストレートそのものと言えよう。単純明快で、極めて分かり易い。 (C) 2021 RandDManagement.com →HOME |