→INDEX

■■■ 「古事記」解釈 [2022.2.3] ■■■
[398]比婆須比売による葬礼標準化
比婆須比売命を取り上げたのでもう少し見ておこう。
称号は大后。段末は、天皇御名に引き続いて大后の狹木之寺間陵が記載されており、別格の扱い。⓫伊久米伊理毘古伊佐知命/垂仁天皇崩御後は実質的皇位の地位にあったと言ってよいだろう。

その部分に以下の文章が挿入されている。
  其大后比婆須比賣命之時 定石祝作又定土師部
狹木之寺間陵造成の仕様について、部民を編成して遺言を残したというこだろうか。
この部分の解説を見るとは、たいていは、前者は石棺、後者は埴輪を担当する職業部とされている。国史では、この皇后が殉死の慣習を止めたとされているからだろうが、「古事記」からはそう読み取るべき根拠はない。
しかし、同世代で発生した殉死らしき記載は別の段で見受けられる。・・・
❿御真木入日子印恵命/崇神天皇📖師木水垣宮
└┬△御真津比売命(大毘古命の息女)
├┬┬┬┬┐
⓫伊久米伊理毘古伊佐知命/垂仁天皇
┼┼伊邪能真若命
┼┼┼国片比売命
┼┼┼┼千千都久和比売命
┼┼┼┼┼伊賀比売命
┼┼┼┼┼┼倭日子命<此王之時 始而於陵立人垣>
太安万侶は大后が殉死慣習を止めて埴輪で代替したと見ていないし、殉死が半ば制度的に行われていたとも考えていないことがわかる。
一皇子が始めたとしており、忠君的な中華帝国の制度を採用しようとの試みを指していそう。詔勅ではないから、朝廷の方針を意味している訳ではない。但し、これ以前に葬儀次第に組み込まれていなかったというに過ぎず、殉葬が無かったことを意味していると解釈すべきではなかろう。
それに、石祝作・定土師部を定める話の直前が多遲摩毛理殉死譚であり、そこでは寿命を延ばす献上品が故天皇だけでなく大后にも同等に献上と記載されている。忠君では筋が通らない。📖多遲摩毛理@墓制と「古事記」

但し、この辺りの考え方は錯綜せざるを得ない。渡来人中心に忠君思想的殉死の観念がすでに入っているとはいえ、朝廷が制度化してはいなかったようだし、もともと貴種信奉・ニライカナイ的尊崇が倭の精神の底流にあるようだから自死が無かった筈もなく、両者は峻別が難しいからだ。しかも、交易ルートがある以上、その交流基盤たる仏僧の影響力を考慮すれば反殉死の考え方が流入していない訳もなく、思想的にはゴチャゴチャでおかしくなかろう。
ある意味、倭の風土の特徴は、この雑炊性とも言える訳で。

太安万侶が指摘しているのは、あくまでも墓葬次第と墓地様式が制度的に塊、朝廷が石製品(祝とは葬礼の意味で、棺と表記している訳ではない。)と土器(出土品からして、ヒト型・馬型以外の埴輪は多種多様で数も多い、殉死代替品であるとは限らない。)の仕様を標準化し、その製造組織を編成したという点に過ぎまい。・・・国史とはスタンスが全く違うので注意を要する。

 (C) 2022 RandDManagement.com  →HOME